『Love me more』第9話


 第9話です。そろそろ物語は折り返し点に達します。


9.登場

「それで、すっかり仲良くなったの?」
 燕はオレンジジュースを啜りながら興味深そうに問い質した。
「仲良くなったというわけではないが」
 椎は、彼女の向かいの椅子に姿勢正しく座して、ジンジャーエールを呑んでいた。
 敷居のマンションの一室である。この3LDKの広壮なマンションには、先日、敷居と椎が取っ組み合いを演じたリビングルームの他に、洒落たバーカウンターを備えた洋間があって、いま、ふたりはそこでドリンクを飲み干しているのだった。
「まあ、一時休戦、というところかな。敷居が〈敷居の先住民〉を運営していることを黙っていたことは腹立たしいが、考えてみれば、同じパソコンを使っていながら、気づかなかったぼくの失点でもある。それに、あの男がその技術を教えてくれるというなら、たしかに助かる。いずれぼくもひとり立ちしなければならないんだ。そのために技術を身につけておくに如くはない」
「ずっとここに居ればいいのに」
 燕は無責任にいった。
「敷居さんがほんとはいいひとだってこと、もうわかったでしょ? 敷居さんだって君のことを好きなんだからさ、相思相愛ラブラブのままずっといっしょに居ればいいじゃない。それでハッピーエンドでしょう」
「お前な」
 椎はうなった。
「どうしてそういう結論が出るんだ。ぼくと敷居はそんな関係じゃないぞ」
「ええっ。そうなの?」
「そうに決まっている」
「おかしいなあ。ラブ面にかんしてはわたしの勘は外れたことないんだけれど。うーん」
 燕は指先で卓上にクエスチョンマークを描いてみせた。椎はうなりながら、燕の鋭さに呆れていた。
 あの日から、すでに十日が過ぎ去っている。椎がこのマンションに居候を始めてから、一ヶ月が近づこうとしていた。その後半、椎は敷居からブログを運営するための奥義を伝授されていた。ブログにかんする敷居のテクニックはどこまでも精緻で、理論的で、現実的だった。それは椎の感覚的な運営術を補い、完成させるものだ。椎は何度となく驚き、目を見張り、圧倒されながら、必死にその技術を学んでいた。
 その授業の合間に、ふたりの関係も次第に近づいていた。〈はじめてのC〉はいまやふたりの作品だった。そして、一致協力してひとつのブログを作り出していく行為は、ふたりの心の距離を否応なく接近させたのだ。いまや椎は敷居の目配せひとつで何をいわんとしているのかわかったし、敷居も、椎が口に出さなくても、かれの意思を汲んでくれるようになっていた。ふたりの精神の距離は、もはや、なまじの恋人たちよりも近いところにあった。
「敷居住人。あの男は天才だ」
 椎はひとり言のようにいった。
「あの男の方法論はぼくが学んだものとはまるで違うが、完全に合理的だ。ぼくは何とか付いていくだけで精一杯だ」
「付いていけるなら、椎くんも才能があるんだよ。敷居さん、他のことにかんしてはともかく、ブログについてだけは大真面目だから、スパルタで大変でしょ」
「ああ。しかし、〈スクール〉にいた頃とは違う。充実感がある」
 〈スクール〉とは何だろう、と燕は思ったが、口には出さなかった。この少女には相手の過去に興味本位で踏み込まないだけの聡明さがあった。椎の過去にいうにいわれぬ事情があることは既に察していたが、彼女にとって、それは椎という人格とは何ら関係のないことであった。椎は椎。それで必要十分だった。
「それにしても」
 と、椎は口に出した。
「敷居が惚れていた女とは何者だろう。なぜ別れることになったのだろうか」
「うん。それはわたしも不思議。だって、あの敷居さんが女の子にふられてめそめそしているところなんて想像できないよ。もしかしたら、ロミオとジュリエットみたいに家同士が敵対関係にあったとか。それとも、村の古い因習で別れさせられたとか」
「さあな。いずれにしろ、ぼくたちが軽々しく踏み込んでいいことじゃないんだろうな。ひとにはだれでも過去がある」
 椎にも重い過去がある。
 彼らの上に君臨していた〈王子〉、そしてあのきびしい〈スクール〉。そこからかれはひとり逃げ出した。そして、この家に拾われることになった。そのことは、敷居にも、燕にも、話していない。話せば迷惑がかかる可能性がある。しかし、話すべきなのだろうか。いつか話すことができるだろうか。椎は想いに耽った。
 と、そのとき。
 チャイムの音が黙想を破った。
「客か。めずらしいな」
 この〈敷居邸〉には燕以外の客はめったに訪れないし、その燕はいまここにいる。また、外出している敷居が帰ってきたのならば、チャイムなど鳴らさずに入ってくることだろう。見知らぬ客が訪れたとしか考えられなかった。
「はい」
 返事をして、燕がとことこと歩いていく。椎がいま座っているところからは玄関は死角になっているため、すぐにその姿は見えなくなった。いっしょに歩いていくほどの興味はない。おそらく、郵便配達か何かだろう。そう思った。
 ところが、甲高い悲鳴が椎の無関心を破った。燕の声だ。椎ははっとして、玄関へ向け駆け出した。
 まさか〈王子〉の手先――?
 ところが、その場に佇んでいたのは、ひとりの、たおやかな物腰の女性だった。
 ひと目見るなり、椎は燕が悲鳴を上げた理由を悟った。その顔に見覚えがあったのである。鏡のなかで毎日見ている顔だった。
「初めまして」
 と、彼女は一礼した。
「敷居椎子です。よろしくお願いします」