『Love me more』第8話


 第8話です。


8.告白

「待て」
 いって、敷居は椎の肩に手を置く。
 そこから邪気が伝わる、というように、椎はその手を撥ねのけた。まるで、プライドの高い野生の動物が、調教師の鞭を撥ね飛ばすような、そんな動作だった。
 敷居はひるまなかった。かれは力ずくで椎の華奢なからだを抱き締めると、その唇を奪った。暴漢のような乱暴なキス。次の瞬間、冷ややかで潔癖な、誇り高い瞳が、至近距離からかれの目を見返してきたかと思うと、敷居は腹部に激痛を感じていた。椎が肘うちを食らわせたのだ。
「二度と許さないといったはずだ」
 長身を折る敷居を冷然と見下ろして、少年はいった。
「舌を噛み千切られなかっただけ幸運だと思え」
 いって、外へ向けて歩き出す。敷居のほうは一顧だにしなかった。その歩みが止まったのは、敷居がかれの足を握り締めたからだ。椎はバランスを崩して、そのままの格好で床に倒れた。すかさず、敷居がそのからだに馬乗りになる。
「離せ」
 そう叫んでなお暴れる少年を、敷居は一喝した。
「聴け!」
 びくり、と震えて、椎のからだが止まる。
「聴け。お前を笑うつもりも、嘲るつもりもなかった。おれが〈敷居の先住民〉の書き手であることを黙っていたのは、お前が訊かなかったからだ。椎、お前の才能はすばらしい。〈はじめてのC〉は、おれには書けない独創的なブログだ。本心から、そういっているんだ。聴け。頼む。聴いてくれ」
 敷居は、おそらく、何年ぶりかで、本心から懇願していた。
 かれのその眼鏡の奥の瞳は、いまや、常の冷ややかな光をたたえてはいなかった。初めて椎の顔を見たときと同じく、烈しく感情の炎を立ちのぼらせ、いまにも燃え上がるかと見えた。
 椎はその迫力に圧倒されたというより、その態度に哀訴に似たものを感じ取って、押し黙った。
「昔、おれには惚れた女がいた」
 敷居は呟いた。
「その女は、おれの女神、おれのすべてだった。彼女のためなら何でもするし、何でもできると思っていた。しかし、おれは些細な過ちからその女を永遠に失ってしまった。もう永遠に逢えない。死ぬまで――いや、死んでも」
 言葉に尽くせない苦い悔恨が敷居の胸に忍び寄る。
 なぜ、あのとき、耐えることができなかったのか。なぜ、醜悪な、許されざる欲望に屈し、その顔に手を触れてしまったのか。しかし、どれほど悔やんでも、もう彼女には逢えない。かれと椎子のいる世界は永遠に隔てられてしまったのだ。
「それから、おれは生まれ育った町を出、京都に住むようになった。その日を暮らすために、できることなら何でもした。男を知ったのもその頃だ。そして、仕事にネットを使うようになり、自分にブロガーとしての能力があることに気づいた」
 敷居は決して思い出すまいと思っていたあの頃を思い出していた。
 失意と絶望の日々。生活と、そして椎子を忘れるために、いくばくかの金でからだを売り、汚れた愛撫に身を任せながら、心を凍らせていった日々。あの頃、敷居の友といえば、ただ憂悶と、自殺願望だけだった。もしブロガーとしてひとり立ちすることができなかったなら、いまでもあの日の延長線上にいたかもしれない。
「椎、お前にはブロガーの才能がある」
 ゆっくりと、いいきかせるように、敷居はいった。
「それも、おれとは別種の資質だ。おれは、しょせん、数ある情報をより分け、分類しなおし、再提供しているに過ぎない。しかしお前は自分の内側に泉をもっている。無限に湧き出るアイディアの泉だ。それを使いこなす術さえ学べば〈はじめてのC〉は〈敷居の先住民〉を超えていくだろう。おれから学べ。そして、おれを超えていけ。椎。椎子――」
 さいごに敷居がいい間違えたことに、気づいたか、どうか。
 椎は、先ほどの激情がすっかり静まりかえった、冷静な、湖面のような瞳で敷居の顔を見上げていた。もはや、そこには、烈しい瞋恚の炎はない。ただ、よく観察してみれば、ひとかけらの同情は見て取れたかもしれなかった。
「離せ」
 いって、かれは力を抜いた敷居の腕から抜け出した。乱れた服を直し、すっと立ち上がる。そうしてみると、かれはやはり少年であり、男性だった。いくらその美貌に少女めいたところがあるとしても、あのたおやかだった椎子とは似ても似つかなかった。
 敷居はその優美な姿を神の彫像でも見つめるように見上げた。
「お前は」
 と、そんなかれを見下ろしながら、椎はいった。
「ぼくを支配したいのか? きびしく管理して一人前のブロガーに育て上げたいのか?」
「支配? 管理?」
 何か特別可笑しい冗談でも聞いたように、敷居は笑った。
「何をいっている。おれは、ただ、お前のその資質を伸ばしてやりたいだけだ。芽吹きはじめた花に肥料をやりたいだけだ。お前の資質はまだ開花しきっていない。すべてはまだこれからなんだ」
「そうか」
 椎は頷いた。
「お前は、ぼくを支配するつもりはないのか。〈王子〉とは違うんだな」
 少年は、ゆっくりと敷居に手を差し伸べ、かれを立ち上がらせた。
「ならば、ぼくはここに居よう。約束だ、敷居。ぼくはお前を超える、そのときまで、ここで過ごす。お前がぼくのなかに何を見ているのか、それは知らないが、もしぼくに才能があるというのなら、それを開花させてみせよう」
「ああ」
 敷居は頷いた。
「おれも約束する。おれの知っているすべてを、お前に教え込んでやる。おれの――」
 と、椎のからだが動いた。
 ふたつの影が、ひとつに重なり合う。
「授業料だ」
 少年はいった。
「日本一のアルファブロガーから教示を受けるのだから、これくらいは当然だろう。さあ、教えてくれ、先生。いったいぼくは何から学べばいい?」