『Love me more』第6話


 第6話です。


6.欲望

 敷居がドアを開くと、室内からあふれ出た暖気がメタルフレームの眼鏡を曇らせた。上着からハンカチを取り出して眼鏡を拭きながら、少年の姿を捜し求める。最近、帰宅すると、無意識に椎の姿を捜すようになった自分のことを、かれはまだ気づいていない。
 その日、椎はどこにも見あたらなかった。しかし、敷居が靴を脱いで室内に入ると、キッチンから花柄のエプロンを身に付けた少年が飛び出してきた。両手に湯気をもらす鍋を手にしている。
 敷居の顔を見つけると、その顔が、うれしそうに綻んだ。
「おお、帰ったのか、敷居。ちょうどいい。鍋を作ったのだ。食べるか」
 呑んで帰ったばかりであまり食欲はなかったが、気づくと敷居は頷いていた。
「少しなら」
「そうか。そうしたほうがいい。今日のポトフは傑作だぞ」
 いって、無邪気な笑顔を閃かせる。既にこの少年が椎子とはかけ離れた性格のもち主であることはわかりきっていたが、それでも、そうやって笑顔になると、椎子の幻が垣間見えた。いつもたのしそうに笑っていた少女。
 敷居は眩しいものでも見るようにその姿を見つめながら、椎と向かい合ってテーブルに座った。少年がかいがいしく動いて器とさじを持ってくる。この家で暮らす以上、家事はお前の仕事だ、といいわたしてあったためだが、それにしてもこの少年はよく動いた。
 初めはろくに料理や洗濯の仕方も知らなかったようだが、すぐに覚え、そのあとは着実に進歩しつづけるようになった。
「いただきます」
 椎は座ったまま両手を合わせて一礼した。そういうところにも、この少年の素性は伺える。なぜ家出することになったのか知らないが、まともな家庭で育ったのだろう。
 この二週間で、初め頑なだった少年の態度は、ずいぶん軟化して来ていた。それは、ひとぎらいの野生の猫が、次第に飼われることに馴れ、擦り寄ってくるようになったようよろこびを、敷居に感じさせた。自分でも意外だったことに、敷居はこの少年との生活を楽しむようになっていた。
 おかしなものだな、と思う。いままで、男とも女とも、同居するつもりなどなかったのに、些細な気まぐれからこんな小僧を抱え込むことになるとは。しかも、そのことを楽しむようになるとは。
 理由は、あきらかに、少年の人柄にあった。椎の倣岸不遜で誇り高い、高貴な猫のような性格は、椎子とは真逆だったが、奇妙に敷居を惹きつけるものがあった。心の奥のほうでは椎子の双子の弟のように思っているのかもしれない。
「今日はどこへ行っていたのだ?」
 ポトフをよそいながら、少年が無邪気に尋ねる。男をあさりに、と露悪的に答えかけて、敷居は首を振った。
「酒場だ」
「ふむ」
 少年は漆黒の瞳を二、三度瞬かせた。
「お前は呑みすぎだと思うぞ。ぼくが見ているときはしょっちゅう呑んでいる。煙草も吸いすぎだし、夜更けまで起きてもいる。健康という言葉を知らないようだな」
「健康になど、興味はない」
「たしかにお前が健康優良な生活を送っていたら気味が悪いが、それでももう少し生活を改善したほうが良いだろうな。歳を取ってから後悔しても遅いんだから」
「真冬の道端にたおれていた小僧にいわれたくはないな」
 ポトフをほんの形ばかり口にしながら、敷居はいった。こういういい方をすると、椎がむきになって反論してくることがおもしろい。案の定、少年は腰を浮かせた。
「あのことは反省している! いつまでもねちねちといわなくてもいいではないか」
「本当にそうかな」
 敷居は意地悪く微笑んだ。
「いまになっても事情ひとつ話さないのだからな。迂闊に信用するわけにはいかん」
「話せないわけがあるんだ!」
 激昂して、椎はその場に立ち上がった。そして、そんな自分に恥じ入ったように咳払いして、ふたたび座す。
 敷居は深追いはしなかった。あのとき、あの場所に椎がたおれていたことに、何かひと言ではいえない事情があることは薄々察していたが、もうこれ以上追求する意思はなかった。もともと、ひとの過去に下世話な興味を抱く性格でもなかった。
「全く、お前は本当に性格が悪いな。そんなことでは嫁の来手もないぞ」
 椎は照れ隠しにか、稚拙な皮肉をいった。
「結婚する意志はない」
 敷居がそう答えると、頷く。
「そうか。お前は男が好きなのだったな。安心しろ。ぼくはそういうことに偏見をもっていない。しかし、相手が男でも、お前のように意地悪で権高ではもてないと思うぞ。もう少し柔らかい態度を身に付けたらどうだ」
「そうでもないらしいぞ」
 敷居が短く応じると、椎は瞬きした。
「そうなのか? お前のような男のどこが良いんだか、気が知れないな」
 敷居は鋭く肉食獣の笑いを閃かせると、鍋に手をのばした少年の手を取った。
「試して、みるか?」
 椎の笑顔が凍りついた。
 敷居は、かれが怒り出すものだと思っていた。しかし、じっさいには、椎はわずかに頬を染めて、照れたように視線を外しただけだった。その態度は、敷居に、在りし日の少女を思い出させた。胸が、刺されたように痛む。
「ぼくに触れることは許さないといってあるだろう」
 少年が小声でいうと、ようやく敷居は自分を取り戻した。この少年は、椎子ではない。
「あれからもう二週間が経つ」
 なるべく冷静にきこえるようにいってみる。
「宿代がキスひとつでは安すぎると思わんか?」
「家事はしている」
「そのからだで払う気があるなら、家事などしなくても良いんだぞ」
 誘惑するような眼差しで、椎の全身を眺め下ろす。
 からかっているはずが、いつのまにか本心からこの少年に欲望を感じていることに気づいて、敷居は驚いた。いつも生意気な言葉を吐き出す、その唇をむさぼりたい。その華奢なからだを押し倒して思い切りなぶってやりたい。そんな、破壊的な衝動が胸の奥から湧いてくる。いま、この瞬間、椎は高貴な姫君で、敷居は蛮族の勇者だった。
「離せ!」
 敷居の目つきに危険を感じ取ったのか、椎はかれの手を振りほどいて、飛びすさった。
「お前がそういう態度を取るならぼくはいつでも出て行くぞ、敷居」
「わかった」
 敷居は深くため息をついて、椅子に座りなおした。
「軽い冗談だ。気にするな」
 少年はふん、と鼻で笑った。お前の本心はお見通しだぞ、というところだろうか。
 それから、しばらく敷居の顔をにらんでいたが、そのうち何かに気づいた様子で、敷居のノートPCを手に戻ってきた。自慢そうにあるウェブサイトを見せつける。
「そんなことより、見てくれ。ブログを更新したんだ」