『Love me more』第3話。


 第三話です。元気少女燕ちゃん登場!


3.椎

「助けてくれたことには感謝する。しかし、これ以上ここにいるわけにはいかない。すぐにぼくの服を返せ」
「服は濡れているといっただろう。同じ内容をくり返させるな」
「濡れていてもいい。いますぐぼくの服を返せ、といっている」
「ふざけたガキだ」
 敷居はゆらりと立ち上がった。
「それが命の恩人に対する態度か? あのまま道端に放置していても良かったんだぞ。そうしていればいまごろお前はそういう減らず口を叩くこともできなかったはずだ」
「減らず口だと」
 少年は口調を強めた。
「ぼくは正当な要求をしているだけだ。あの服はぼくのものだ。返せといって何が悪い」
「なるほど」
 敷居は苦笑した。
「おれが服を盗むとでも思っているわけか。ばかばかしい。悪いが、事情を聞かせるまではそのままの格好でいてもらうぞ。家出か」
 少年が奥歯をかみ締める音が鳴った。かすかに頬を紅潮させ、敷居から視線を逸らす。
「お前には関係ないことだ」
「図星のようだな。ここを出ても行くあてはあるのか」
「関係ないといっているだろう!」
 少年は手もとの枕を握り、敷居に向けて投げつけた。敷居はそれを軽々と受け止めると、スナップを利かせたモーションで少年の頬を叩く。少年はその部分を押さえて、呆然と敷居の顔を見つめた。何をされたのかわからない、という表情。
「礼儀を知らないガキにお仕置きだ」
 敷居がそういうと、初めて少年の瞳に烈しい瞋恚が燃え上がった。固くこぶしを握り締め、半身を起き上がらせたままの姿勢で殴りかかってくる。敷居はそのこぶしを軽く受け止めると、逆にかれの両手を取ってベッドの上に押したおした。ふたりはベッドの上でにらみ合う格好になった。
「わかったか。お前はからだが弱っているんだ。しばらくおとなしくしていろ」
「離せ!」
 少年は瞋恚をこめた瞳で敷居を見据えた。押したおされたままの姿勢でじたばたと暴れる。敷居は、かすかな嘲弄を秘めた目つきでそれを見下ろすと、唐突に少年の唇に自分の唇を押し当てた。少年の動きが、石化したように止まった。
「おとなしくするんだ。いいな」
 いって、敷居はベッドから立ち上がった。少年は呆然とかれを見上げたかと思うと、ぷいと視線を逸らして拗ねた子供のように布団にくるまった。
 敷居がその背中にさらに言葉を投げかけようとした、その時だった。甲高いチャイムの音がかれの耳を叩いた。敷居はひとつ舌打ちをして、玄関へ向かった。チェーンを外し、ドアを開ける。
「おはよう! 敷居さん!」
 ドアの向こう側に立っていたのは、ピンク色の鞄を提げ、昨日降った雪のように白いワンピースを着た女の子だった。年齢は十二、三というところか。
「燕か」
 いって、敷居はからだで燕の視線をさえぎった。
「悪いが、今日は用事があるんだ。帰ってくれ」
「怪しい」
 その少女、燕は、煌めく瞳に露骨な好奇心を閃かせて、部屋の奥を覗き込んだ。
「知っているんだ。敷居さんがそう言うときは、たいてい男を連れ込んでいるんだから。わたしにも紹介しなさいよっ」
 叫ぶなり、彼女は、敷居の横をくぐり抜け、室内に侵入していた。元気がそのままひとのかたちを取ったかのようなリズミカルな足取りで奥へ走る。敷居は止めようとしたが、間に合わなかった。燕はあっというまにベッドの脇まで辿り着き、ふてくされた表情で寝ている少年の顔を覗き込んでいた。
「だれ、この子?」
 背後をふりかえって、燕はいった。
「どう見てもまだ十七、八じゃない。敷居さんの好みにしては若すぎる気がするけれど。知らないの? 未成年と淫行したりしちゃいけないんだよ」
「そんなものじゃない」
 敷居は深いため息をついた。
「昨日、道端でたおれていところを拾ったガキだ。まだ名前も聞いていないがな」
「ふーん」
 燕は興味深そうに少年の顔を覗き込んだ。
「おはよう! 行き倒れくん! 君、名前は?」
 少年はちらりと燕の顔を見やったかと思うと、冷ややかに顔を背けた。
「お前らに名のる名前はない」
 燕は大きな瞳を大げさに見開いて、両手を振り回した。
「うわ、敷居さん、何、この子。めちゃくちゃ偉そうだよ?」
「そのようだな」
 そうと知っていたら助けはしなかったんだが、と敷居は内心で呟いた。たまに善行を施すと結果はこれか。どうやら、おれはつくづく善人には向いていない男らしい。
「おい、ガキ。せめて名前くらいは名のったらどうだ」
 敷居がいうと、少年は真剣な口調で答えた。
「名は捨てた。かってに何とでも呼ぶがいい」
「ふーん。じゃ、女の子みたいな顔しているから、由紀子とか茜とか千早とかでいいかなっ。千早ちゃん、よろしくね」
 燕が無理やり手を握ろうとすると、少年は冷たく無視した。
「あれ、気にいらないのかな? 千早って、可愛い名前だと思うんだけれど」
「椎」
 敷居が唐突にいった。
「椎がいい。椎の木の椎だ。おれはそう呼ぶことにする。いいな」
「かってにしろ」
 少年は背を向けたまま答えた。燕が喜んで手を叩く。
「うん、いい名前だね。よろしく、椎くん。わたし、瀬戸内燕。お友達になろうね」
 少年、椎は答えなかった。
 この時は、だれも、この出逢いが、ひとつの物語の始まりであることなど、気づいてはいなかったのだった。