『Love me more』第2話。


 続きです。Cさん、じゃない椎少年が目ざめます。


2.少年

 窓ガラスの向こうから、峻烈な陽光が差し込めてくる。
 敷居は、その光の刃に目を刺されて、はっと目を醒ました。重いまぶたをこすり、何となく辺りを見回すと、見慣れた部屋の光景が目に入った。どうやら、椅子に座ったまま眠ってしまったらしい。
 かれの自室だった。3LDKのマンションの一室で、ざっと十二畳ほどもある広い部屋である。その広大な空間は、ベッドとソファ、高価で高性能なPCや音楽機器、そして膨大な量の本によって埋め尽くされている。
 敷居自身もこの部屋にどのくらいの本があるのか知らないが、少なくとも数千冊は下らないはずだった。趣味で集めたものもあるが、仕事の資料も含まれている。
「寝ていたのか」
 低く独語して、かれは壁の掛け時計に目をやった。十二時十六分。どうやら、眠っていたのは三十分程度のことらしい。ひとつため息をついて、かたわらのベッドに視線を送った。
 ひとりのうら若い少年が眠っている。昨夜、敷居自身が路傍にたおれていたかれを拾って、この部屋まで連れてきたのだ。
 しかも、少年はいま、寝巻きに着替え、その秀でた額に水を絞ったタオルを載せていた。敷居は昨夜からひと晩中、高熱を発した看病していたのだった。まるで、優しい母親か看護婦のように。
 敷居はひとつ頭を振って、ポケットから煙草を取り出した。火を点け、ゆっくりと味わい、口から紫煙をくゆらせる。
 我ながら信じられないような気まぐれだ、と思う。いつも冷たい態度で他者を拒絶し、仕事のほかにはひと握りの人々と肉の関係をもつことでしか繋がっていない自分が、こともあろうに行き倒れの子供を助けるとは。まるで善人のようではないか。
 もちろん、『クリスマス・キャロル』のあの老人のように、急に改心したわけではない。ただ、どこか椎子に似ているこの子供を見捨てることができなかっただけだ。しかし、それにしても――。
 敷居はあらためて少年の顔を覗き込んだ。いっそ幼い、といいたいような若々しい顔立ちである。いまは目は閉じられているが、それでもこの少年は美しかった。テレビに出てくるアイドルたちと比べても、そう劣るものではないだろう。しかも、その種の少年たちにはなかなか見出すことのできない、天性の気品と、そして柔らかさが備わっている。同年輩の少女なら、さぞかし騒ぐことだろう。こんな少年がなぜあの暗い路地裏でたおれていたのか、敷居には想像ができなかった。
「家出か、それとも喧嘩か……」
 ひとり呟いて、あたらしい煙草に火を点ける。
 と、そのとき、昏々と眠りつつけていた少年のまぶたが、かすかに動いた。いくらかはっとして、敷居が見守っていると、ゆっくりと、いかにも重たげにまぶたが開き、漆黒の瞳が敷居の目にさらされた。
 似ている。
 敷居は思わず胸を衝かれた。
 錯覚ではなかった。目を開いてみても、やはりその少年はかれの記憶のなかの少女によく似ていた。否、目を開けるといっそうよく似て見えた。
 たしかに、この少年の目には、椎子にはないものがある。ひたすらに愛らしく柔らかかった椎子とは違う、鋭い圭角のようなもの。男らしさ、といっても良いかもしれない。しかし、それでもなお、少年の顔かたちは敷居に失われた少女を思わせて余りあるものがあった。まるで姉弟であるかのように。
「気づいたか」
 胸の奥でざわめくものを無理に封じ込めて、声をかけると、少年はまだ夢のなかにいるようなまなざしで、かれの目を見つめた。もともと秀麗な顔かたちだけに、そういう目つきをしてみると、奇妙に少女めいていて、何となく艶っぽかった。敷居の胸の奥で、さらに何かが騒ぐ。
「ここは?」
 少年は、かろうじて、といった様子で声を絞り出した。光が眩しいのか、それとも紫煙が染みるのか、かすかに目を細めている。
「おれの部屋だ」
 煙草を灰皿に押し当てながら、敷居は答えた。
「昨日のことを憶えているか。お前は、意識を失って路地裏にたおれていたんだ。それを、おれが拾ってここまで連れてきた。親切なことにな」
 かすかな自嘲を込めて、敷居は説明した。話しているうちに、次第に少年の目つきに理性が戻ってくる。そうすると、かれの印象は椎子から遠ざかっていった。椎子にはない、強く、烈しいとすらいえるような意思の光が明らかだったからである。
「ぼくは、たおれていたのか」
 おそらくは意識しているのだろう、少年の声は明瞭になった。
「そういっている」
 敷居が冷ややかに答えると、少年はゆっくりと半身を起き上がらせた。そこで初めて自分の格好に気づいた様子で、かれの体格には大きすぎる寝巻きを驚いたように見つめる。その瞳が、かすかな戸惑いを宿して、敷居の瞳を正面から見つめた。
「着替えさせたのか」
「ああ」
 敷居は短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
「お前の着ていた服なら洗濯機のなかだ。まだ濡れたままだから、しばらくその格好でいてもらうぞ」
「恥知らず!」
 少年の言葉が鞭のように敷居を打った。
「ぼくを裸にしたな! 非礼だろう!」
 予想外の言葉に、敷居はもともと切れ長の瞳をさらに細めた。
「度しがたいガキだな。女じゃあるまいし、裸を見られたことがそんなに恥ずかしいか。服を着替えさせなければお前は死んでいたかもしれないんだぞ」
「死んでいた?」
 少年は、記憶を辿っているのだろう、どこか遠くを見つめるような目で考え込むと、くやしそうに奥歯をかみ締めた。
「なるほど、わかった。今回だけは見逃しておく。どうやらぼくはお前に危難を救われたようだから、そのことも感謝しておく。しかし、ぼくは出て行く。すぐにぼくの服を用意しろ」
「待てよ」
 敷居は、少年のその倣岸な様子に、我ながら愚かしいと思わざるをえない失意を覚えながら、かれをとどめた。いくら顔かたちが似ていても、この少年は椎子ではない。
「おれは凍死寸前だったお前を助けてひと晩中、看病したんだ。いわば命の恩人だ。ああいうことになった事情くらい聞かせてもばちはあたらんだろう」
「話す事情などない」
 少年の瞳が炯々と光った。