「業」を抱えて生きるということ。

「この国はとっくにおしまいですよ。誰もが気づいてるのに誰も何もしようとしない。どうしようもないよ。(中略)こんな国、一度滅んでしまった方がいい。」

 つい今年のベストには入れ忘れてしまったが、小松左京×一色登希彦の『日本沈没』は2008年を代表する傑作だった。

 その内容は30年前に書かれた小松の原作を下敷きにしてはいるものの、骨格から肉付きまで改変されており、実質はほぼ一色のオリジナルといっていいだろう。

 日本沈没の時期も70年代から現代に移し変えられていて、「日本列島が沈没すること」は全く新たな意味をもって読者に迫ってくる。

 上記はその『日本沈没』の冒頭に出てくる台詞である。破滅的ともいえる内容だが、日本という国がどこか行き詰まってしまったいま、ある種の共感を覚えるひとは少なくないのではないか。

 しかし、現実には日本が沈んでしまうことはない。どんなに頽廃しているとしても、ぼくたちはこれからもこの国で生きていくしかないのだ。

 今年最後となるこの記事では、そのことについて少し書いてみたい。

 2008年は「終わりの始まり」の年だった。後世から歴史を振り返るひとは、今年をそう定義することになるかもしれない。

 悪化の一途を辿る不況、あまりにもあっさりと職を奪われ、道端に放り出される人々、社会全体にただよう何ともいえない閉塞感、いつのまにか、日本は何か途方もない迷路に足を踏み入れてしまったように見える。

 もちろん、そういう認識こそ愚劣であるかもしれない。いくら不況が続いているとはいえ、あいかわらず犯罪率は低く、人心も安定している、この国は平和だ、そうもいえるかもしれない。

 しかし、いま、自信をもって「日本はいい国だ」といえるひとがどれくらいいるだろう? 在りし日を懐旧する風潮がつよいのも、人々が「いま」に失望している証拠ではないだろうか?

 だから過去に帰るべきだ、とは考えない。どれほど辛い道のりになるとしても、希望は未来にしかない。「いま」を否定するところからは、何も生まれてこない。そう思う。そう信じる。

 しかし、それではぼくたちの未来はどこにあるのだろう? どちらへ向かって走ればいいのか? もちろん、ぼくはその解答を用意してはいない。おそらく、各人各様に考えていくしかないことなのだろう。

 ひとつだけいえることは、自分自身を卑下する必要はないということだ。ネットを見ていると、自分自身の価値を低く見積もっているひとが多すぎるような気がするんだよね。そんな必要はないのに、と感じる。

 たしかに、すべてのひとが何か優れた特技をもっているわけでも、美貌に生まれついているわけでもないだろう。大半のひとは誇るに足る何かなどもっていないはずだ。ぼくだってそうだ。

 だが、だからといって生きることに後ろ向きになる必要はない。奇麗事にきこえるだろうか? そうかもしれない。それでも、ぼくの本心である。人間の本質は生きることそのもののなかにある。そこに優劣はない。それがぼくの信仰だ。

 格差社会と叫ぶ声がかまびすしい。こういう社会では、これからも「自分には生きる価値がない」と思い込まされるひとが増えていくだろう。

 ぼくは、断固としてそういう思想に抵抗する。生きる価値がない人間なんていない。そういいはり続ける。どれほど甘ったるい奇麗事に聞こえるとしても。それが真実だと思うからだ。

 たしかに、この世にはイケメンもいればキモメンもいるだろう。並外れた才能を持ち合わせた者もいれば、何の技能にも恵まれない者もいるだろう。この世は不平等。この世は理不尽。

 けれども、それをいうなら、たった五歳で小児がんにたおれ、儚く死んでいく子どももいるのだ。十歳になるかならずで凶刃にたおれ、天寿を全うすることなく消え去る命もあるのだ。

 不平等だからこそ、理不尽だからこそ、懸命に生きる姿は美しい。醜ささえもが、浅ましささえもが、美しい。それが生きるということだ。「理」では割り切れない「業」を抱え、この世という地獄を死ぬまで歩いていくということだ。

 そういう人間が好きだ。だからこそ小説を読み、だからこそ映画を見る。そこには人間の「業」が、「宿命」が刻印されているように思う。

「醜くても、愚かでも、誰だって人間は素晴らしいです。幸福じゃなくっても、間違いだらけだとしても、人の一生は素晴らしいです」

SWAN SONG

 今年一年お世話になりました。来年も一年、頑張って生き抜いていきましょう。

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