このゲームにはルールがない。


 以下はぼくの書いた「2次元はひとを裏切る」に言及した記事からの引用である。

 作り手にとって裏切りとは読者への(本物の)悪意ではなく、多くの場合、読者とのゲームである。もっと正確に言い換えるなら、「読者としようと望んでいた」であろうゲームだという事。

 たとえば、処女だとイメージされていたキャラに突然、非処女属性が提示されたなら、受け手は恐らく「処女性」について認識を揺さぶられ、それについて何かを考えるだろう。そして、それを挟んで物語がどう転がるかを見守るだろう。作家はその視線に応えて、更に裏切るか、あるいは期待に合わせるか、あるいは期待以上の事をするかを選ぶ。そういうゲームだ。

 本気で読者に悪意(殺意)を企てて作品を突きつける作家など、文学史でも極めて稀な位の存在だろう。

 そのゲームが根本的な所で成立しない人がいる。彼らは作品への期待や固定観念が揺さぶられる事さえ読者への人格否定として受け取る。

 それはキャラの貞操に留まったりはしないだろう。提示された問題の解決(未解決)、大団円、排除されるキャラとされないキャラ、それまで前提とされていたものの解体、世界観のメタ化、メタから物語への再帰

 そういう読者を作家が説得する事は殆どの場合において不可能だ。作家以外の人においてもだろうけど。また、ゲームをするかしないかは読者の自由なのだ。薦める事は出来ても強いる事は出来ない。

 最終的に作家はゲームする事をやめるか、ゲームの出来ない人を置き去りにしてゲームを楽しめる人の為だけに続けるか、その二つに一つしかないのだ。それが双方の自由における妥協点であるという事を、この記事は示しているのだと思う。

 秀逸な「読み」だと思う。

 しかし、ぼくとしては、「そのゲームが根本的な所で成立しない人がいる」というよりむしろ、「読者がゲームから降りること」まで含めてゲームなのだ、という言い方を採りたい。

 作家は、自作においてある展開を選ぶとき、その選択によって読者が作品から離れる可能性を考慮するだろう。たとえば、連載漫画で人気キャラクタを退場させるような場合、多くの作家は迷うはずである。

 読者が離れすぎればゲームは成立しない。しかし、読者に媚びるばかりでは作品は退屈な代物に堕す。作家にとってこのゲームはそういう勝負なのだ。

 このゲームに明確なルールはない。いいかえるなら、作家と読者のあいだには何ら約束事は存在しない。ぼくはそう思っている。しかし、「ルールがあるはずだ」と思い込む読者は常に一定数いて、それがしばしばトラブルをひき起こすのだろう。

 たとえば、今回の『かんなぎ』騒動では、「ヒロインには主人公以外の想い人はいないはずである」というルールの存在を信じたひとたちが巻き起こしたもののように見える(実物を読んでいないから、じっさいどうかは知らない)。

 また、『新世紀エヴァンゲリオン』最終回時の騒動などは典型的な例だろう。あれは「すべての伏線は回収される」というルールの存在を信じる層を製作者側が裏切った、という事件だったのである。

 この種の「ゲームにはルールが存在するべきだ」という考え方は根強いものがある。また、ある種の「ルール」はじっさいにある程度の効果を挙げているように思われる。

 たとえば、推理小説では最後までに犯人が明かされるべきだ、というような「ルール」である。この種の「ルール」を破った場合、作者が非難を浴びることは少なくない。

 しかし、とぼくは思う。それでは、読者は作家がその「ルール」を守っているかぎり、作品を見捨てないといえるだろうか、と。

 答えは「否」だろう。作者が忠実に「読者との約束」を守りつづけたところで、読者はいつ去っていくかわからない。したがって、作家はあまりルールを本気にすることは出来ない。

 唯一、かれにとって重い意味をもつのは、かれ自身が生み出したルールである。たとえば、『DEATH NOTE』はある種の「ルール」を次々と破っていくことで読者の予想を外した。

 しかし、作者自身が設定したルールは最後まで守りつづけた。一流のエンターテインメントとは、往々にしてこういうものである。

 ぼくは、作者自身が決めたルールを破ることも「あり」だとは思う。しかし、このルールは、ほかの「ルール」に比べていちじるしく重い。

 作家が読者を裏切ることは許される。読者とは作家を見捨てるかもしれないものだからだ。しかし、自分自身を裏切ることはめったなことでは許されない。したがって、作家は過去の自分が選んだ展開に縛られることになる。

 作家は読者と勝負する一方で、自分自身ともたたかっているのだ。