ぼくは詳しく知らないのだが、「バ行の腐女子」を名のる女性ふたり組による替え歌らしい。山本さんは、この動画が受けた理由を解説するかたちで、このように書いている。
近年、マンガやアニメの世界で、『となりの801ちゃん』や、『さよなら絶望先生』の晴美、『げんしけん』の大野さんや荻上さんみたいな腐女子キャラが増えてきたのも、偏見を下げている原因かもしれない。
「腐女子はキモい」から「腐女子でもかわいい」へ、さらには「腐女子だからかわいい」へ――いわば「腐女子萌え」という動きが出てきているのではないか。
無論、本物のA子&B子さんがどんな顔なのかは分からない。しかし、妄想は自由である。声だけ聴いて「実物はものすごくかわいいんじゃないか」と妄想したって、何も悪いことはあるまい。
さらに進んで、今度の冬コミあたりでは、2人の百合本とか出たりするかもしれない(油断はできない。冗談がすぐ本当になるのが同人界だ!)。まあ、腐女子のみなさんも、実在の芸能人やらスポーツ選手やらでホモ本を出しているのだから、自分をモデルにレズ本を出されても怒れまい。
これに対し、id:koisuru_otoutoさんは正反対の内容の記事を上げている(ここ)。
同性に性的指向を持つ女性が同性に恋をしている(またはパートナーがいる)場合、そこにはその人自身の主体(自我)があるはず。
それと同じで、やおいを好む女性がやおいを愉しむこともまた、そこにその人自身の主体があるはずなんです。
それなのにその主体性を無視して、自分に都合のいいようにレッテルを貼る。
そして、思うさまコケにして「萌え」のルールで遊び倒す。その様を堂々と見せつける。
それって暴力っていうんじゃないんですかね。
皆さんが潰れろ潰れろと言っている毎日変態新聞さんがやったことと何が違うんですかね?
オタクやワーキングプアに犯罪者予備軍や放蕩ニートというレッテル貼りをして、総叩きするメディアや上中流層や団塊の世代と何が違うんですかね?
ってことです。
相互に無関係の記事だが、180度主張が違うところがおもしろい。さて、どちらが理があるだろうか?
結論から書くと、やはり山本さんの意見は無邪気すぎると思う。「自分をモデルにレズ本を出されても怒れまい」ってなあ。怒らないにしろ、傷つくかもしれないじゃん。
たしかに、「実在の芸能人やらスポーツ選手やら」で「ホモ本」を出している腐女子は存在する。しかし、彼女たちのほとんどはその行為を正当だと考えているわけではない。
たぶん、本人や事務所からやめるよう勧告が出されたとして、「妄想は自由だ」と開き直るひとはほとんどいないと思う。妄想は自由でも、それをかたちにして公表することは必ずしも自由ではないのである。
id:koisuru_otoutoさんの言葉を借りるなら、彼女たちはその行為の「暴力」性をある程度、自覚しているのだろう。
それにくらべると、山本さんは「萌え」の暴力性に無自覚であるように見える。「(パンピーはともかくオタクの間では)腐女子に対する偏見が薄れている」というが、「腐女子萌え」もまた、嫌悪とは別種の偏見であるに過ぎない。
ただ、たぶん、「腐女子萌え」そのものはこれからも増えていくことだろう。そして、じっさいの腐女子が、そのことを迷惑に思ったり、不快感を感じたりする例も出てくるのではないかと思う。
だからやめろ、とはいわない。しかし、そういう危険性に対して、少しは自覚的であるべきではないだろうか。まあ、さすがに「実在の人物をモデルにレズ本を作って何が悪い」といい切れるひとがそういるとは思えないけれど。
一方で、腐女子の側も、自分たちの文化と自分たち自身が急速に可視化されつつあることを自覚するべきだと思う。その良し悪しはともかく、ここ数年で腐女子は「見える」存在になりつつある。そのことの自覚は必要なのではないか。
「一般人に見つからないところに隠れていたい」と考える腐女子が多いことは、たとえばここを見るとわかる。
ええと、そもそも「腐女子」という言葉から分かるように私達801者の人間には「腐ってるものを扱ってる」意識があります。
原作をホモネタにしてしまうことへの罪悪感、著作権を侵害している罪悪感です。
だから出来るだけ奥へ奥へもぐり、せめて原作を妄想抜きで楽しんでいる純粋なファンに見せず迷惑をかけないようにしようという意識があります。ナマモノだと特にその意識は強くなります。
しかし、現実に年間何百冊という本が出版され、ネットでは無数の同人系ウェブサイトが乱立するいま、腐女子文化が「奥へ奥へもぐ」っていると主張することには無理がある。
同人系のウェブサイトがよく無断リンク関連で問題を起こす理由はここにあるだろう。「奥へ奥へ」隠れたがる当事者の意識と、リンクフリーを基本とするネットのルールが正面から衝突するのである。
むずかしいところ。