「読み」を共有しよう。

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見つけたニュースを紹介する。

「読んでもらいたい」「知ってもらいたい」「感想が欲しい」「情報を広めたい」などなど、ネットにアウトプットする理由はさまざまであれ、結局のところ発信者と受信者で共有知を形成する行為だと思っているのです。

 書評サイトも一種の共有知だといえるかもしれない。

 「書評」というと、一方通行に情報を送りつけるイメージだけれど、じっさいにはネットでの「書評」は双方向的な性質を兼ね備えている。

 あるひとがある作品の書評を書けば、何かしら反応が返ってくることは多い。それはかならずしも同じ意見のもち主からの共感のメッセージではなく、異なる「読み」のもち主からの異論や反論だったりすることもある。

 しかし、そういう複数の「読み」を参照することで、ぼくらは、ひとつの作品を多角的に眺めることが出来る。

 ネットがない頃にはごく限られた専門家(と、ごく一部の熱心なファン)の間でだけ行われていたことが、いまは規模を1000倍にして行われている。その恩恵は大きい。

 ネットにアップされた書評は、自動的にその作品にかんする書評のデータベースを形づくる。そして、書評を共有するということは、単に作品にかんする情報を共有することではなく、その作品の「読み」を共有するということなのである。

 「読み」とは、そのひとがその作品をどう読んだか、ということを指す。意識しているかどうかはともかく、だれでもやっていることだと思うが、ぼくはある作品を紹介するとき、その作品の「読み」も一緒に紹介しているつもりである。

 つまり、その作品そのものだけではなく、「自分がその作品をどう読んだか」も一緒に紹介する。それは、「このように読めば、このくらい楽しめる」という情報を提供する行為でもある。

 だから、ぼくの書評を読んだひとは、ぼくの「読み」を前提にして作品を鑑賞することができる。

 もちろん、ぼくの「読み」など貧しいものだが、たとえばいずみのさん(id:izumino)の『スクラン』読解などは、多くのひとに影響を与えていると思う。

 かれの「読み」を知っているのといないのとでは、作品に対する理解が格段に違ってくる。それが「読み」を共有する利点である。

 他人の「読み」を知ることで、その作品をより深く楽しむことが出来るのだ。

 しかし、その逆もある。ひとの視点と価値観はそれぞれに異なる。同じものを読んでも、同じものを見るとは限らない。それはしばしば苛立ちや衝突を生み出す。

 まず、一般に『ジャンプ』を愛好する男子読者には、やおい的な読みを強く嫌悪する傾向がある。その背後には、男性主体の持つホモフォビアに基づく感情がある。「やおい」が元テキストに対して、ホモセクシャルな読み替えを行うものである以上、ジェンダー・トラブル的な問題はついて回る。

 しかし、こうした「衝突」を、そうした読み手の主体の問題、セクシュアリティの問題にいきなり還元するのではなく、同じテキストを読んでいるはずなのに、違うものを見ている存在に対するいらだち、という次元から見ることはできないだろうか。ここでいっているのはとても単純な話だ。彼はこういうだろう。「俺はストーリーに感動しているのに、あいつらはキャラしか見てない!」と。

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

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 ここにあるものはいわば「読み」のヒエラルキーに基づく差別とでもいうべきものだろう。ここで「彼」は、自分が「正しい読み」を行っているという前提から、「間違えた読み」に対して苛立っているのだ。

 しかし、そのように「読み」の快楽性に序列を付けることができるだろうか。ある「読み」が「正しく」、別の「読み」が「間違えている」とどのようにして判定するのか。

 むしろ、複数の「読み」をパラレルに認識し、複数の「読み」を踏まえて作品を見ることで、より深くその作品を理解することができるとはいえないだろうか。

 もちろん、より良い「読み」というものはありえると思う。しかし、それはかならずしも「正解」ではない。ある「読み」が正しいから、ほかの「読み」は間違えているとはいえないのだ。

 それどころか、ある「読み」に固執して、ほかの「読み」を否定する行為は「狭い」といえると思う。キャラクタだけを愛好するにとどまる「読み」も狭ければ、キャラクタ性を否定する「読み」も狭い。

 「読み」を共有しよう。より深く、より豊かに、そして、より「広く」読むために。