他人は理想をなぞってはくれない。

わたしが本田透が礼賛する「純愛」ってものに反発しか感じないのは、彼が「変わることを求めない」ことが純愛だと定義しているからだと思う。まぁ、彼自身が(モテたいなら)変われ、と陰に陽に言われ続けてきたのかなぁ、と同情はするんだけどね。相手のために変わりたいと思わないのだったら、恋愛とかする必要はないんだと思う。別に四六時中恋愛してる必要はないしね。

しかし何故アニメのキャラクターや人形などを妻にしたり子にしたりする人がいるのかね。「自分のことを否定する可能性のない対象」にいくら入れ込んだって面白くないじゃん。もしかしたら否定されたりしてるのかもしれないけれど、それにしても自分の脳内で完結してる話だし。時折予定調和の世界でぬくぬくするな、この弱虫め、と腹が立ったりする。一度もコンタクトをとったことのない有名人にほれ込むのもよくわからないけれど、あちらの方はまだお近づきになれる可能性がないではないので、まだましか。

 いいたいことはわかるけれど、ちょっと極論すぎるかな、と。

 この記事、「否定しているのではなく、純粋に理解できない」と注釈が付いているんだけれど、「まだましか」などと書かれていると、やはり否定しているように読めてしまうよね。

 ぼくは本田さんの意見には全く賛成しないけれど、かれが個人として「アニメのキャラクターや人形などを妻にしたり子にしたりする」ことを批判するつもりはありません。

 本田さんの問題点は、かれの個人的嗜好であるものを、破綻したロジックで普遍化しようとすることにあるのであって、その嗜好そのものが問題含みであるわけではない、と考えるからです。

 他人に危害を加えないかぎり、どんな「倒錯的」な趣味やセクシュアリティも大らかに認められるべきだと思う。他人の変態性に優しくなろうよ。だれもひとのことを笑えるほど正常じゃないのだから。

 あとまあ、上記引用先ではっきりそう書かれているわけではないけれども、恋愛がいつも人間を成長させるもので、アニメやゲームが「弱虫」がいりびたる「予定調和の世界」かというと、そんなこともないと思うんですよね。

 もしひとが恋愛で変わるのだとしたら、芸術でも変わる。芸術で変わるのだとしたら、エロゲでも変わる。ぼくはそう思う。

 アニメもエロゲもMADも結局は人間が作っているわけで、それを体験することは、間接的に人間と触れ合うことでもあるのです。

 というか、じっさいにぼくは他人が作った創作物で変わってきた結果ここにいるわけで、その事実を否定することはできません(良い方に変わったかどうかはわからないけれど)。

 たしかに、萌えアニメだのエロゲだのといった「倒錯的」なカルチャーは、一見すると受け手のナルシシズム保全する役割しかないように見えます。

 しかし、そこにも、どうしようもなく「予定調和」を崩す要素は入りこんでくるわけで、だからこそぼくはそういうものが好きなのだと思う。

 他人は決して自分の理想をそのままになぞってはくれないということ。恋愛でも創作物でも、ここを勘違いすると、悲劇が起こるのでしょう。

 世の中には、たまにとてつもなく幸福な恋愛とか、優れた創作物というものがあって、それは非常に勘違いを生みやすいのですよね。「これこそ自分が求めてきたものだ!」と錯覚させてしまったりする。

 まあ、その勘違いが一生続けば良いんですけれど、大抵の場合、そうは行かないからなあ。そういう経験なり作品こそが、一方的に「裏切られた」と思い込むひとを生み出したりするのだと思います。

 『エヴァ』みたいに。