ぼくが「正解」をほしくない理由。


 前回の記事に対するトラックバックより。

「正解」というと意味が限定される気がしますが、作品(物語)の中で、ある「問い」を立てそれに対する「答え」を書く(描く)というのはよくある話だと思います。

漫画を前提に論を進めますが、その成功の一つの形が「寄生獣」ではないでしょうか。種の共存、生命のあり方(実際にはもっと多義的に捉えうる、複合的な問いですが)という根源的な難問に対して、全十巻の中で作者なりの一つの答えを提出しています。

冒頭のリンク先の記事で言う「正解」は、私の言う「問い」に対する「答え」とほぼ同義でしょうが、「正解」という言葉にはどうしても、それ以外の答えを排除するという印象がついて回ってしまいます。

確かに、「問い」を設定したのはその作者自身で、その作者自身による回答なのだから(まさか自分で意図的に「間違い」を書くことはないでしょうから)、「正解」でも間違っていないのかもしれません。ですが、根本的に、人間は自分の言いたいことを過不足なく言えるという事は決して出来ないのです。人間の言葉は、自分の思いに届かず苦しむか、自分の思いに余計な意味がくっついて悔やむか、常にどちらかなのです。

「1+1=2」のような抽象概念による「問い」と「答え」ならばそれが「正解」ともなりますが、人間の思考のようなファジーで未分化なものに、言葉、あるいは絵という、不完全(全一ではない)なピースで形を与えようとしても、その出来上がりはどこか歪にならざるを得ないのです。

 おおむね賛成する。ただ、ぼくは本来そうであるものが、あたかも無条件に最善の解答であるかのように描写されることが気に食わないのだと思う。

 上記リンク先では、「冒頭のリンク先の記事で言う「正解」は、私の言う「問い」に対する「答え」とほぼ同義でしょう」とされているが、じっさいは微妙に異なる。

 ぼくがいう「正解」とは、あらゆる「答え」のなかでも、そのほかの「答え」を排除してしまうような性質の「答え」のことである。

 つまり、その「答え」のみが正しく、ほかの「答え」は正しくない、という印象を与える「答え」こそ、ぼくは気にいらないのだ。

 「「正解」という言葉にはどうしても、それ以外の答えを排除するという印象がついて回ってしまいます」とあるが、まさにそうだからこそ「正解」という言葉を選んだのである。

 その「答え」が客観的に見て正しいかどうかということはここでは問題ではない。ある「答え」がほかの「答え」をことごとく圧殺してしまうこと自体、好まないのだと考えてほしい。

 それは、ぼくが「答え」の「正しさ」とはどこまでも相対的で限定的なものだと考えているからだろう。

 たとえば、「人間はいかに生きるべきか?」という「問い」に対しては無数の「答え」が考えられるだろう。そのなかの一つを取り上げて、それのみが「正解」であるかのように描写されると、どうも白ける。

 個人的には、『寄生獣』には、そのような意味での「正解」の堅苦しさを感じない。『寄生獣』は、たしかに「種の共存、生命のあり方」に対し、一つの「答え」を出しているが、それが無条件で「正しい」ものとしては描かれていないと感じるからである。

 いま、手元に『寄生獣』の単行本がないので、具体的に検証することは出来ないが、ぼくはそういう印象を受けた。ぼくが『寄生獣』という作品を好きなのはそこら辺にも理由がありそうである。

 わかってもえるだろうか? ぼくはたとえば槇村さとるの作品に違和感を抱くけれども、それは槇村さとるの思想がきらいだ、ということではない。ただ、それはそれ以外の思想に対して排他的であるという意味で、狭量だとは思う。

 つまり、「答え」そのものに文句があるわけではなく、ただ、そこに、ほかの「答え」を許さないようなかたくなさを感じるのである。

 あるひとが、だれにも頼らず、依存せず、気高く、誇り高く生きていく、それは良い。人生という「問い」に対する一つの見事な「答え」だろう。

 しかし、その生き方のみが「正しく」、ほかの生き方は「間違えている」というふうに表現されると、ちょっと待ってほしい、と思うのである。

 たとえば、『彼氏彼女の事情』の芝姫つばさなどは、「ひとに依存して生きていく少女」として描かれているわけだけれども、作中では別にそのことは非難されない。ぼくはそこに作品の懐の深さを見る。

 槇村さとるは、自立した大人の女性を描くことは巧みだが、芝姫のようなキャラクタは生み出しえないのではないか、と思う。ぼくが槇村の作品に惹かれる一方で反感も感じるのはそのためである。

 もちろん、じっさいに作者が作品を通してそのように発言しているわけではないから、ただぼくがかってに作品からそのようなメッセージを読み取っただけだ、とはいえるだろうが。

 先日読み上げた『ディバイデッド・フロント』のあとがきには、このように書かれている。

 ただ、どんなにつらく苦しく不本意な環境であろうとも、我々はそこで生きていくしかないんですよね、結局。
 その身も蓋もない、当たり前の現実に気づいたとき、いつまでも膝を抱えて蹲ったまま泣き言を繰り返すのか、顔を上げて目の前の現実と向き合うのか、それもやっぱり人それぞれ違うはずです。というか、そうじゃなきゃ困ります。どちらか一方が正しいなんて事になったらやってられません。泣き言ばっかりの人は見ててイライラしますが、その繊細さを許容してくれない世界ってのもしんどいでしょう。また、力強くこの現実と立ち向かう強さを持った人は逞しいかもしれませんが、その強さを他人にも求められるとあんまり逞しくない私なんかは絶対に困るなーとか、そんな風に思うのです。

 ぼくもそう思うんだよね。「泣き言」も「逞しさ」ももろともに許容するような作品が好きだ。