物語に「正解」はいらない。


 と、ぼくは思うんだけれど、どうよ? いきなりこんなことを書いてもわからないか。

 小説でも漫画でも、映画でもいい、何かしらの物語を読んだり、見たりしているとき、そこに作者の考える「正解」を見つけることがある。

 「正解」とは「このように行動すれば良いのだ」という、その作家なりの結論のことである。ぼくの場合、物語にそのような「正解」が出てくると、白けてしまうことが多い。現実にはそうそう「正解」は見つからないと思うからだ。

 たとえば、槇村さとるである。往年の少女漫画家時代はともかくとして、最近の槇村が描く作品には、いつも「正解」があるように思える。

 以前にも書いた記憶があるが、槇村さとるの作品を読むとき、ぼくはいつもそこに「正しさ」の圧力のようなものを感じる。このことに関しては、ぼく自身の言葉で語るよりも、「紙屋研究所」の的確な批判を引いたほうが早いだろう。

 正直、槇村さとるは、嫌いな漫画家の一人である。
 ただ、それは、ネグレクトしている、という意味ではない。
 『おいしい関係』はすべて読んでいたし、『イマジン』は買ってそろえた。『ピタゴラスの定理』などというややマイナーな一冊も購入した。
 「ヤングユー」誌で展開される近作も、けっしてとばすことはない。
 少なくとも目を離さずに読ませ続けることのできる、すぐれた漫画家の一人である。

 にもかかわらず、嫌いである。

 前にも書いたが、ある種のきびしさを追求する槇村の「リアル」は生硬で、ともすれば、「成功」した側の説教にさえ聞こえる。その成功譚は自らの写し絵であり、その一端は実は、たしかに自力によるものでもあるけども、他方でマスメディアを利用して築かれたものであるという点で、けっして普遍化できるものではないはずなのに。個人をそんなに責めることはないのだ。もっと「世の中が悪いのだ」、「弱い者同士が支えあおう」、と叫んでもいっこう差し支えないものである。

 槇村作品を貫く「正しさ」は、ひと言で表すことが出来る。「自立せよ!」である。

 槇村の作品世界にあっては、「自立」はすべての価値の根本にあり、他者に依存することは、精神の脆弱さ以外の何物とも見なされない。

 したがって、どの作品でも、初め誰かに依存していた主人公は、悩み苦しみながら、最後には「自立し、だれにも頼らずに一人で生きていく」という「正解」にたどり着く。

 そのこと自体は別に間違えてはいない。「紙屋研究所」に書かれているように、たしかにきびしすぎる理想だとは思うけれども、そのきびしさが一種の美しさに通じていることもたしかである。

 また、その高邁な理想を単なる奇麗事に終わらせず、血肉をともなった人生のプロセスとして描き出せていることが、槇村さとるが一流の漫画家である証拠だろう。

 が、それでもなお、何度も何度も同じ「正解」をくり返し提示されていると、やはり白けてしまうものを感じる。そしてもっと悪いことには、「正解」を知っていると、その「正解」から逆算して物語の展開を予想できたりもする。

 槇村の最新作に『Real Clothes』という作品がある。

Real Clothes 1 (クイーンズコミックス)

Real Clothes 1 (クイーンズコミックス)

 ファッション業界を舞台にした漫画なのだが、この作品の主人公は最初から恋人がいる設定になっている。でも、ぼくは第1巻を読んだ時点でこの二人がいずれ破局するであろうことが予測できてしまった。

 なぜなら、彼女たちはお互いに依存しあっているからである。つまり、彼女たちの関係は槇村の「正解」にふさわしくないのだ。

 物語がいずれ「正解」にたどり着くことが明らかである以上、「正しくない」関係性は正されなければならない。だから、先の展開が簡単に予測できてしまうのである。

 ぼくは槇村の作品が「嫌い」ではないが、その「正しさ」はあまりにも正しすぎると思うことがある。もっと間違えていても良いのではないか、と感じるのだ。

 小野不由美の『十二国記』にも似たような不満がある。

 いうまでもなく『十二国記』は日本のファンタジィ小説を代表する大傑作である。もしライトノベルから最高傑作を一作選べ、といわれたら、この作品を挙げるひとは少なくないのではないかと思う。

 しかし、ぼくはここでも「正解」の堅苦しさを感じてしまう。たとえば、『風の万里 黎明の空』。この作品の結末近くで、長い遍歴の果てに人間的成長を果たした少女はいう。

「人間って、不幸の競争をしてしまうわね。本当は死んでしまったひとがいちばん可哀想なのに、誰かを哀れむと負けたような気がしてしまうの。自分がいちばん可哀想だって思うのは、自分がいちばん幸せだって思うことと同じくらい気持ちいいことなのかもしれない。自分を哀れんで、他人を怨んで、本当にいちばんやらなきゃならないことから逃げてしまう……」

風の万里 黎明の空(上)十二国記 (講談社文庫)

風の万里 黎明の空(上)十二国記 (講談社文庫)

風の万里 黎明の空(下)十二国記 (講談社文庫)

風の万里 黎明の空(下)十二国記 (講談社文庫)

 有無をいわさぬ「正しい」言葉である。この物語のすべての展開は、この言葉に流れ込むように出来ている。巧みな構成だ。

 しかし、ぼくは、こう言葉にして「正解」を示されると、むくむくと反発心が涌き出て来るのを感じる。

 ぼくが天邪鬼なだけかもしれない。しかし、物語があらかじめ設定された「正解」に向かっていると感じると、一抹の白けた感じを覚えるのは、ぼくだけではないと思う。

 ぼくにとっては、そのようなロジカルな「正しさ」で割り切れないところにこそ、物語の醍醐味はある。

 もちろん、そういうメッセージ性の強い作品を好むひともいるということも理屈ではわかるのだけれども、ぼくにとっては、物語に「正解」はいらないのである。物語には、物語さえあれば十分だ。