神様、時間を下さい。

どんなに成長して前向きに生きていても、どんなに使命があると思っても、いきなり病に倒れてしまうことはよくあるものだ。もちろん、グインサーガは長すぎて、後半はいろいろ言いたいこともある人も多かろうとお思うが、しかし・・・もう20年も共にある小説で、ほとんど自分の人格を形づくったとさえいえるような影響を幼少期に受けた、本当に愛している、人生と主にあるものだ。だから、、、とても感慨がある。なんとか手術は成功されたようだ・・・本当にうれしい。こういう、どうしようもないこと・・・・自分が無力なこと、、、には、ほんとうに胸がつぶれる思いがする。こういう時、信仰心なんかゼロなのに、神様に思わず祈ってしまう。どうか、グインサーガの完結を書き終わるまで、、、、と。

 と、ペトロニウスさんも書いておられるが、ぼくも全く同じ気もちである(思わず全文転載してしまいました。すいません)。

 前巻のあとがきで初めて栗本さんががんの大手術を行ったことを知った。あと数年しか生きられない可能性も高いという。何といったらいいのか、言葉もない。

 ぼくはもう20年近く続けて彼女の作品を読んでいる。どれほどたくさんのものを与えてもらったか、はかり知れない。そういう意味では、ぼくにとっては恩人にあたるひとだといえる。運命は時々ひどい真似をする、とあらためて思う。

 ひどい話だが、このニュースを目にして、ぼくがいちばん最初に考えたことは、「それでは、『グイン・サーガ』が未完のまま終わってしまうのかもしれないのだな」ということだった。

 しかし、それはもう、いっても仕方ないことである。だれよりも作者自身が最も完結させたいと思っているに違いないのだから。

 だから、ぼくとしてはただ、運命の神ヤーンに祈ることしかできない。どうか、彼女にもっと時間を下さい、と。ヤーンが決して願いごとを聞き届けたりしない神であると、知ってはいるのだけれど。

 一方で、この先、仮に『グイン・サーガ』が未完に終わるとしても、それはそれで受けいれられる気もする。何といっても、その運命のままならなさこそ、この作品の最大のテーマなのだから。

 たぶん、ペトロニウスさんならわかってくれるのではないかと思うのだけれど、ぼくにとって、この作品は、一作のおもしろい物語「ではない」。

 たしかに、初めは物語としての波乱万丈、SFとしてのスケールに惹かれて読みはじめた。でも、いまとなってはもう、読書の主眼はそこにはない。

 正直、作品のSF的な側面にはそれほど興味はない。ぼくは何というか、「運命の教科書」としてこの作品を読んでいるのだと思う。

 この作品には、ありとあらゆる種類の人々が登場する。王侯貴族はもちろん、兵士、傭兵、盗賊、娼婦、役者、芸人、商人、政治家など、あらゆる性別、職業、階層が網羅されている。

 そして、そのほとんどが、幸運とはいえない運命を与えられて苦しんでいる。それを見て、ぼくは思うのだ。それでは、ぼくだけではないのだな、人生を苦しいと思うのは、と。

 ひとの運命とは、不条理なものである。あるひとは幸運に何もかも与えられ、あるひとは不運に何もかも奪われる。くじ引きのような偶然ですべては決まる。

 しかし、運命が不条理だからこそ、そこに立ち向かうとき、ひとは真の意味で雄々しく凛々しくなれることを、ぼくはこの物語から学んだ。

 ひとはときに、自分の運命が世界でいちばん悲惨なものであるかのように言い立てることがある。それはある意味で正当なことだ。だれも運命の良し悪しを比べることなどできないのだから。

 でも、考えてみれば、ぼくなどはこの平和な、栄えた日本で、飢えることも、渇くことも知らずにその年まで生きることが出来た、それだけでも幸運と考えることもできる。

 世の中に目を向けてみれば、悲惨な運命はいくらでも転がっている。五歳か六歳か、そんな年で病にたおれ、儚く命を散らす子もいれば、生まれながらにからだが不自由で、思うようにならないひともいる。

 格差社会とさわがれるようになって久しいけれど、仮にこの先、経済的な格差が解消されたとしても、才能の格差、容姿の格差、性格の格差、つまり運命の格差はいかんともしがたいだろう。

 自分が自分として生まれたこと、それこそが究極の不条理である。しかし、その不条理を前にして、どのように立ち向かっていくのか、そこでこそ、人間の値打ちは決まってくるのだと思う。

 そう、ぼくたちは好きでこの世に生まれてきたわけではない。だから、どんなに世を呪おうと、嘆こうと、だれにも責められないことだろう。

 だが、ひとは、それでもなお、自分の運命を受け容れ、力の限りに生きていくこともできる。ぼくが『グイン・サーガ』から学んだのはそのことだ。

 わかってもらえるだろうか? たしかに、この世は理不尽なのだ。怨んでも怨みきれないほどにひどい仕組みで出来ているのだ。

 あるひとは一生を気楽に何不自由なく過ごすことだろう。またあるひとは絶望に打ちひしがれて死んでいくことだろう。同じ人間に生まれながら、そこには救いようもない落差がある。

 しかし、そうだからこそ、ひとは偉大であることもできるのだ、ということ。

 ひとの一生の価値は、何をなし遂げたかではなく、その運命に対しどのように立ち向かったかで決まる、とぼくは思う。

 その意味で、ぼくらは皆、勝利なきたたかいをたたかう戦士であり、喝采なき舞台を演じる役者である。そこまで考えたとき、初めて、「平等」という言葉が意味をもってくる。

 わかってもらえるだろうか? たぶん、わかってくれるひとはわかってくれることだろう。それでいい。とにかく、ぼくはこの作品からそのことを学んだのである。そしてそのことで、ほんの少し、前向きになれたと思う。

 もちろん、あいかわらずぼくは弱く、愚かしく、くだらない人間のままだが、そんな自分を肯定するために、この作品は力をくれた。感謝している。

 だから思うのだ。どうか神様、時間を下さい、と。アルド・ナリスの枕頭でヴァレリウスが祈ったように。