原初の「一」。


 一次創作と二次創作の関係についてはよく考える。

 たしかに現代日本では二次創作が春を謳歌している。たとえばギャルゲのSS(二次創作小説)は何十万あるかわからないし、コミケに行けば何万冊という同人誌が売られているし、そして、ニコニコ動画はMAD動画というかたちで二次創作の春を迎えている。

 コミケやニコニコではその道のプロまでがこぞって二次創作に耽っていることはご存知の通り。ほとんど原典とは無縁なほど想像を働かせた場合もある。「このキャラ、どこのだれよ?」という同人はたくさんあるもんね。

 また、この場合のオリジナルとは物語に限らないこともご存知の通り。ひとはそこに妄想の余地さえあればいくらでも萌えることができる。

 そういう意味では、現代は全く二次創作の時代だ。オタクたちの想像力は素晴らしい。もう二次創作さえあれば一次創作なんてなくても生きていけるんじゃないかと思うくらい。

 が。それでもなお、まだ二次創作が一次創作を圧倒するということはないと思う。

 いったん推進力を得た二次創作はオリジナルから離れMADになり、やおいになり、性転換になり、どこまでも変貌し進展していくかもしれないが、それでもやはり触媒としてのオリジナルを必要とする。

 そこから生まれる二次創作が何万という数になるとしても、そこにいたるまでに原初の「一」を必要とするのだ。とりあえず、いまのところは。

 ただ、その「一」を生み出す苦労はどんどん増大する一方なんじゃないかと思う。何しろネットというものがある。いまじゃ、あらゆる作品が発表直後から分析され、批評され、分解されてしまう。読者の想像力を上回ることは容易ではない。

 そういう意味では、どんどん一次創作は割に合わないものになりつつあるんじゃないか、二次創作ばかりが易々とふくれあがっていく時代が来ているんじゃないか、と思いもする。また、一次創作そのものがどこか二次創作じみてきている気もする。

 ぼくはそういう流れにわりと危機感を抱いているが、たぶん、心配してもどうしようもないことなんだろうね。いままで、どれだけの文化が低俗だとののしられながら進歩してきたことか。文化の進歩とは、そういうものだろう。

 この時代に、少しでもあたらしいものを生み出そうとする、すべてのクリエイタは祝福されるべきだろう。そのこころみが、かならずしも成功しないとしても。