多様性健忘。

寛容のレシピ―オーストラリア風多文化主義を召し上がれ

寛容のレシピ―オーストラリア風多文化主義を召し上がれ

 「寛容のレシピ」。

 多民族国家オーストラリアにおける多文化主義の解説書です。

 非常に平易な文体で簡潔に書かれているので、だれにでも理解できるでしょう。タイトルからもわかりますが、スペシャリスト向けの専門書というよりは、一般向けの啓蒙書ですね。

 本書によると、人口のほとんどが移民と移民の子孫から成るオーストラリアはアメリカを上回る他民族国家です。そして、そのために無残な差別が横行してきました。

 最もひどい犠牲をこうむったのは現地人のアボリジニですが、イタリア人や中国人なども差別の標的になった歴史を抱えています。

 この現実をどのように克服していけばいいのか? そのとき採用されたものが多文化・多言語主義でした。

 多文化主義(マルチカルチュアリズム)とは、さまざまな文化を抱えた人びとを一つの文化に同化させるのではなく、そのままの文化を保持したまま国家を運営していくシステムです。

 本書によると、オーストラリアではこのシステムが成功し、差別問題が激減したといいます。本当にそうなったのかはこの本だけではわかりませんが、ま、今回の話には当面関係ないので置くことにしましょう。

 ぼくはこのごろ、このウェブログ捕鯨問題の本やタバコ問題の本、ポストコロニアリズムの本を取り上げています。

 続けて読まれている方は雑然とした印象を受けたかもしれませんが、ぼくとしては、一貫した問題軸なんですよね。つまり、ひとはなぜひとを見下すのか、という問題です。

 ぼくの目から見ると、愛煙家と嫌煙家の争いというものはものすごく辛いものがある。捕鯨問題にしても、何でもっと誠実に対話して歩み寄れないものかと思う。

 そこには何か一貫した問題があるんじゃないか、ということでこれらの本を読んできたとわけです。

 そこで何が見えてきたか? あまりはっきりしたいことはいえないんですけれど、ひとついえることは、ある集団がある集団を見下すときは、多様性の忘却が行われているということですね。

 ぼくたちは普段、一人一人の人間が異なる個性をもっていることを意識しています。男性といい、日本人といい、サラリーマンという。

 しかし、それぞれのひとはそういう言葉では表しきれないディテールを備えている。あたりまえのことですよね。どんな集団もひと言ではいい表わしきれない多様性を備えているわけです。

 ところが、愛煙家とかホームレスとか捕鯨業者とかユダヤ人教徒とかパレスティナ人とかいうラベリングが貼られてしまうと、その多様性は忘却され、あたかも一つの個性しかない集団のように見られてしまう。

 この、いわば多様性健忘とでもいうべき問題が差別問題の根底にあると思います。

 たとえば、嫌煙家のなかには愛煙家を罵倒するひとがいるけれど、愛煙家が皆同じメンタリティを備えているわけじゃないわけです。

 それぞれにそれぞれのタバコを吸う理由があり、主張があり、個性がある。それにもかかわらず十把一絡で罵倒するひとがいる。これって何なんだろうと思う。

 もちろん、その根底には、ある愛煙家がこんなひどいことをしていた、という事実があるのかもしれないけれど、それにしてもそれを全体に敷衍することは出来ないはず。

 敷衍できないものを敷衍するからおかしなことになるわけで、うーん、何なんでしょう。

 ただ、そもそも人間は一々個人個人を特定しながら考えることはできないわけですよね。何万何億とかいう単位の個性をすべて把握するということはできない。

 どうしてもラベリングする必要が出てくる。そこでどうラベリングの下の顔を忘却せずにいるか? それが大切なことだと思うわけです。

 多様性を抹消したラベリングを用いながら、いかに多様性を忘却せずにいるか? ここらへんがいまの課題ですね。