真の寛容とは何か。

いつもチャットでお世話になっております、儀狄です。

オランダのイスラム排斥の引き金を引いたのは、映画監督のゴッホ氏(余談ですが、彼は同姓の著名な画家の親族でもあります)殺害事件だそうです。

(参考 url)http://musume80.exblog.jp/1326745

オランダ人はイスラムを知ろうとしなかった、それはあるかも知れません。ただ、オランダのイスラム教徒の側も、オランダの寛容な精神を受け入れようとしなかった、とされます。

上記の文で描かれているのがオランダのイスラム教徒の多数派の像なのかどうかはさておき、寛容を考えるとどうしても行き当たる問題があります。

「寛容を否定する意見にも、寛容であるべきか?」という問いです。海燕さんはどうお考えになりますか?

 その質問に答える前に、まず二、三確認しておくべきことがあります。

 まず、ムスリムは本当に寛容を否定しているのか? そして、オランダにおける「寛容」とは何だったのか? ということです。

 『イスラーム戦争の時代』によると、この映画の内容は次のようなものだったということです。

 この作品は、全身をヴェールで覆った女性のモノローグで、虐待と服従の生活が語られていくのだが、率直に言ってムスリムではない私にも、イスラーム・フォビアを煽りすぎているという印象が残った。全身をヴェールで覆っているのに、胸から下はシースルーの衣装であり、乳房も透けて見える。ムスリムの女性がそのような姿を人前にさらすことはありえない。監督による演出は、ムスリムが見れば、許容の限度を超えた悪意と受け止める。イスラームでは、女性であれ男性であれ、裸体、とくに性器を人目にさらす行為はもっとも忌むべきものとされる。

(中略)

 テオ・ファン・ゴッホ監督が作品のなかに登場させた女性も、彼女自身が語る虐待の生活とは裏腹に、ひどく性的に誇張され、好奇の視線を煽る姿であった。

 表現の自由を否定する意図はまったくないが、もしこの種の作品を公開するなら、ムスリムの激しい反発を覚悟しなければならない。それは、イスラームという宗教の特性によるのではない。キリスト教徒であれ、ヒンドゥー教徒であれ、仏教徒であれ、宗教的規範を正面から侮辱されたときには、同じように反発するはずである。作りたければ作ればよい。しかし、信徒にとって侮辱的な内容を作っておいて、激昂するなと諭すことはできないことを知るべきである。まして、この種の映画からイスラーム・フォビアを高めるのであれば、すべてのムスリムに対して敵対的な態度となることも覚悟せねばならない。

 つまり、ムスリムは決して理由もなく怒っているわけではない。侮辱されたと感じるまっとうな理由が存在するのです。

 もちろん、だから暴力が許されるわけではない。しかし、相手が手ひどく侮辱されたと感じている事実を無視し、相手が怒ったら「何とひどい連中だ」と嘆いてみせるという態度は、客観的に見て、公正なものとはいいがたいのではないでしょうか?

 また、ゴッホ監督殺害事件は悲劇ですが、すべてのムスリムがそれに賛成しているわけではないでしょう。ひとつの暴力事件でもって、十数億人におよぶ人間を象徴させることはできません。

 暴力や殺人は否定されなければなりませんが、それはムスリムとの共存が否定されることとイコールではないと思います。

 仮に全ムスリムが怒ったとしても、それを暴力につなげたのはごく一部です。この事件は、文明と宗教の本質から来る必然的な衝突などではありません。避けようと思えば避けられた悲劇に過ぎないのです。

 いま、預言者ムハンマドの風刺画をめぐる事件が話題になっていますが、あれも同じことではないでしょうか。ぼくたちだって、最も尊敬し、敬愛するひとを公然と侮辱されたら激昂するはず。一方的にムスリムの側にだけ非があるとは思えません。

 もうひとつ、確認しておくべきことは、「寛容」とは何か?ということです。goo国語辞典によると、日本語の「寛容」とは、

心が広く、他人をきびしくとがめだてしないこと。よく人を受け入れる・こと(さま)。

 とあります。しかし、オランダ語で「寛容」にあたる言葉には、このようなあたたかなニュアンスは存在しないようです。ふたたび前掲書から引用します。

 オランダの場合、問題がたいへん厄介なのは、ムスリムに敵対する人びとは、自分たちが不寛容に陥っていることを認識できない点にある。長い間、「寛容」ということばを呪文のように繰り返してきた社会がもつ落とし穴である。もっとも、考えてみれば、英語やオランダ語の「トレランス=寛容」ということばには、温かいまなざしで相手を見るという感覚はないし、相手に敬意を抱くことも含意されていない。むしろ、「耐えられる」の意味で使われていることが多い。

 以上のことを踏まえて最初の質問に戻ります。「寛容を否定する意見にも、寛容であるべきか?」

 ぼくの答えは「相手が本当に寛容を否定しているのか、慎重に確認せよ。そして、もしそうだとしたら相手が「なぜ」そうしているのか知れ」ということになります。話はそれからではないでしょうか。