会釈ならOKとはかぎらない。

店員に「ありがとう」と言う人が大嫌い。おかしいのでしょうか。。。

(中略)

見ててイラッとします。会釈ならいいんです。私もするし、感じいいです。でもなんで声に出す?
知り合いでも何でもないのに、馴れ馴れしくない?と思います。
そういう人に限って、何かあったときにねちねちクレームつけたりする。

私自身、コンビニでバイトしてたときに、「ありがとう」と言われたことあります(関西の発音の人が多かったような。。。)

正直、内心で「友達でもないのに何様?」と思ってました。別にお礼言われるようなことしてないし、と。

「店員に「ありがとう」と言う人が大嫌い。おかしいのでしょうか。。。」

 また強烈な意見だな、おい。

 はてブでもさっそくホットエントリ入りしているけれど、「どうせ釣りだろ」といういつものあれのほかは、否定的な意見が多いみたい。

 それはそうだろう。「ありがとう」とひと言添えたくらいで「大嫌い」「何様?」呼ばわりされた日には、どう行動したら良いのかわからなくなってしまう。

 それとも、「「ありがとう」と言っていいのは友達だけ」というローカル文化圏が存在するのだろうか。それはそれで空恐ろしいような話である。

 おもしろいことに、このひとは「会釈ならいいんです」と書いているわけだけれど、「会釈が大嫌い」というひとだって、理屈の上ではいてもおかしくないだろう。

 たとえば、上の文章を次のように書きかえてみることもできる。

店員に会釈する人が大嫌い。おかしいのでしょうか。。。

(中略)

見ててイラッとします。「ありがとう」ならいいんです。私も言うし、感じいいです。でもなんで黙って会釈?
声に出せばいいのに、面倒がっているの?と思います。
そういう人に限って、何かあったときにねちねちクレームつけたりする。

私自身、コンビニでバイトしてたときに、会釈されたことがあります(東北ふうの外見の人が多かったような。。。)

正直、内心で「口に出せばいいのに何様?」と思ってました。別に会釈されるようなことしてないし、と。

 これはこれで不条理なりに文意が通る。ようするに「××が大嫌い」という理屈なんて、いくらでも作成することが可能なのだ。

 重要なのは、自分が「大嫌い」であることを大好きなひともいるかもしれないと思うこと、そしてそれが決して悪いことではないのだと理解することだと思う。

 異質な価値観を尊重すること。これからの日本で、価値観はますます多様化していくことだろう。

 「ありがとう」ということをよしとする価値観、会釈することをよしとする価値観、黙って去っていくことをよしとする価値観、そのほか無数の価値観が共存することになる。どのひとつが正しく、ほかが間違えているということはできない。

 我われには、自分の価値観だけを正しいと信じ、自分が違和感を感じる価値観を排斥するような不寛容な態度を乗り越えていくことが必要である。
 と、理屈の上では、そうなる。

 しかし、現実的にそんなことが可能だろうか? 世界はこんなにも不寛容に満ちているのに。

 最近読んだ『イスラーム戦争の時代』によると、9・11以降、オランダで急速にイスラム教徒に対する差別と排斥が進んでいるという。

 もともとオランダは、他人が何をしていようと本人の問題として許容するリベラルな社会だった。麻薬の使用すら一定の条件のもと認められるという、極端に自由な、成熟した社会だったのである。

 当然、イスラム教徒に対する差別も薄かった。ところが、9・11以降、その状況は劇的に変わってしまう。

 著者はそれをオランダ人がイスラムについて何も知ろうとしなかったからだ、と語っている。

 たしかにオランダは寛容な国家だった。しかし、その「寛容」とは、隣人のことを何も知ろうとせず「共存」というより「並存」することを意味していた。それだけに、いったん違和と疑惑が噴出すると、押さえようがなかったのだ、と。

 本当に寛容になるためには、理屈として寛容が大切だと知っておくだけではだめなのかもしれない。この世に、自分とはどうしようもなく異なる価値観をもつ「他者」がいることを肌で知ることが必要なのかもしれない。

 しかし、それは自分にとって不快な存在と接してそこから学ぶことを意味するわけで、なかなかむずかしいだろうな、と思う。そういうことができるひとを、本当の意味で大人と呼ぶのだろう。