『エピデミック』日本唯一の疫学小説に震えろ!

エピデミック

エピデミック

「先生、もう状況は聞かれてますよね」
「うん、さっき、島袋クンから連絡があった。ぼくがこの時点で思うのはね、SARSだったら逆によかったと思わなきゃならないんじゃないかな、ってことで……」
「はい?」高柳の声がうわずって聞こえた。
 あれ、ぼくはなんか変なことを言ったかな、と棋理は自問する。しかし、きわめて論理的に正しいことを言ったまでだ。

 『エピデミック』。

 川端裕人の最新作は日本初の「疫学小説」である。ハードカバーで500ページに及ぶ超大作で、読みごたえ十分。

 内容も端正かつ迫力満点で、一見地味なテーマでも読ませる読ませる。「疫学」という学問の存在自体を知らないひとにも十分にお奨めできる力作だ。

 物語の舞台はある地方都市。沿岸のクジラが名物のごく平凡な町で、ある日、疫病が流行しはじめる。あたりまえのインフルエンザかと思われたその病気は予想をこえて拡大し、遂に死者を出すにいたる。

 その頃偶然その都市にいた疫学者島袋ケイトは、彼女のもつ疫学の知識を最大限に駆使しながら感染ルートさがしに乗り出す。

 動物か? 環境か? 海外か? 国内か? 事故か? テロか? ありとあらゆる可能性を排除することなく、少しずつ「確率分布の雲」を狭めていくことが彼女の役割。

 対するは正体不明のウィルス。手持ちの武器は人類最良の道具、疫学。フィールド・ワークとロジカル・シンキングをくり返しつつ、犯人を追い詰める探偵さながら、ケイトは真実に近づいていく。

 しかし、疫病の現場に留まるということは、彼女自身が危険にさらされるということでもある。爆発的に拡大していく疫病のなかで、ケイトの身にも危険が迫る。

 目にも見えない、さわることもできない、人類最強の敵に対して、論理推理能力だけを武器に迫るケイトには勝ち目はあるのか?

 ひさしぶりに読んだ小説だけれど、いや、ほんと、おもしろかった。疫学小説というと地味そうだが、読みはじめると止まらない。読み進めるほどにサスペンスは高まり、ミステリは深まっていく。

 作品成功の理由は疫学研究のプロセスを探偵小説仕立てにしたアイディアにあるだろう。第3章のタイトルはその名も「疫学探偵」。どんな可能性も考えられる状態から、試行錯誤をくり返しながら少しずつ真相に迫っていくプロセスが読みどころ。

 より迅速に事件を解決しようとするケイトたちの前に政治的問題が立ちふさがってくる辺りはお約束だが、疫学自体の性質が足をひっぱるくだりは迫真的。

 疫学の理想は疾病の蔓延以前に事態を収束することであり、したがって、その仕事が成功すれば成果は見えにくくなる。評価されないことこそフィールド疫学のプライドなのだ。

 努力すれば努力するほど評価されにくくなるという矛盾を抱えながら、ケイトたちは奔走する。その姿がハードボイルド型の探偵を思わせる。

 一方、本格ミステリ的な「名探偵」を想起させるのが彼女の師、棋理。天才的な頭脳をもつ理論派で、アウトサイダーとして事件の外から推理する。

 かれはいう。

新型インフルエンザに不意打ちを食らったら、一週間で全世界に蔓延し、最終的な死亡者数は五億という試算があるのですよ。その数字を弾き出したモデルは問題が多いのだが、まあ具体的な数字としてはよく知られている……」

 ひとつ対処を誤れば日本全体を混乱に陥れかねないアウトブレイクを前に、細いロープの上をわたるような「捜査」が続く。

 どこか淡白さをのこすあたり微妙なもの足りなさを感じさせないこともないけれど、まず傑作といって差し支えない出来。冬の夜長を忘れさせる一冊だ。