『ハルヒ』と『絶チル』を比較してみる。


 今週の『絶対可憐チルドレン』はオール4コマ。

 さすがに全ページを4コマで埋めることは苦しかったのか、途中でイラストが混じっていたりするけれど、往年の天才4コマ作家椎名高志の片鱗が伺える。

 『Dr.椎名の教育的事情』の、「おれには失うものは何もない」とうそぶくスパイに子猫を懐かせて尋問する漫画とか、M1のキングコングより笑わせてもらいました。

 以前、チャットで話したんだけれど、『絶チル』は『涼宮ハルヒの憂鬱』とちょっと似ていると思う。

 どちらも傍若無人にふるまう女の子の話なんだけれど、自由奔放に動いているように見えて、実は周囲に甘えている。依存されているようで、依存している。保護しているようで、保護されている。

 彼女が気ままに動くことを周囲が認めているからこそ自由にふるまえるのであって、本当に好き勝手に生きているわけではない。そういう構造がある。

 つまり、両者とも「楽園」の物語である、ということ。その上で、『絶チル』と『ハルヒ』には大きな違いがある。

 『絶チル』では、楽園にはいずれ終りが来ることが示唆されているのに対し、『ハルヒ』では楽園の日常が長々と続く点だ。

 このような、「楽園」を出て外の世界と触れることにより受ける軋轢は、人が成長する時にいつかは出会わなければならないものなのではないのか。例えば、ぼくは『涼宮ハルヒの憂鬱』の次の部分にそのような感情を見出さずにはいられない。

(前略)それまであたしは自分がどこか特別な人間のように思ってた。家族といるのも楽しかったし、なにより自分の通う学校の自分のクラスは世界のどこよりも面白い人間が集まっていると思っていたのよ。でも、そうじゃないんだって、その時気付いた。あたしが世界で一番楽しいと思っているクラスの出来事も、こんなの日本のどこの学校でもありふれたものでしかないんだ。日本全国のすべての人間から見たら普通の出来事でしかない。そう気付いたとき、あたしは急にあたしの周りの世界が色あせたみたいに感じた。夜、歯を磨いて寝るのも、朝起きて朝ご飯を食べるのも、どこにでもある、みんながみんなやってる普通の日常なんだと思うと、途端に何もかもがつまらなくなった。(後略)

涼宮ハルヒの憂鬱』 p225-226

 この部分はハルヒが、自分が「特別な人間」でないことを自覚した時を回想した場面だ。それはつまり、自らが属する「共同体=楽園」の外部に出会うことを意味する。ここで語られたことは、幼い頃に誰もが体験することだろう。

 ハルヒはこの「憂鬱」を解消するために自ら「楽しいこと」を作り出そうとする。そうしてこのシリーズは進行する。だが、その「楽しいこと」が尽きた後のことは未だ語られることはない。ぼくにとって、それはただの問題の先延ばしにしか見えず、彼女にとって本当に必要なのは一時的に「憂鬱」を忘れさせてくれる「楽しいこと」ではないような気がするのだが。

 この指摘は正しいと思う。

 ぼくも、ハルヒはその「憂鬱」と向き合うべきなんじゃないか、と思う。自分が無数の人間のなかの一人に過ぎず、世界にとっても社会にとっても無に等しい存在であることを思い知るべきじゃないか、と。

 しかし、作中では、彼女を守るSOS団の面々によってそういった可能性は回避され、ハルヒが人間的に成長する可能性もまた摘み取られる。そして楽園が続く。とりあえず、ぼくが読んだところまではそうだ。

 もちろん、それは彼女(と世界)のためを思ってしていることだけれど、結果としてハルヒが現実に直面することを阻害しているといえなくもない。

 そして、そのことによって、キョンもまた、SOS団の面々もまた、楽しい楽園にのこることが出来る。ハルヒとかれらは相互に依存しあっている。

 それに対して、『絶チル』では、兵部京介という存在が、常に皆本とチルドレンの「楽園」を壊そうと介入してくる。そして、最後にはその目論見が成功することがすでに規定事実となっている。

 そしてまた、主人公であり、『ハルヒ』でいえばキョンにあたる位置にある皆本は、少女たちに甘えられても、彼女たちに甘えることはしない。依存は一方向的である。

 こうして考えてみると、『ハルヒ』って甘ったるい話だなあ。学園祭を最後に学校を離れた『ネギま!』と比べても、やはり甘い話だと思う。

 そこがいいんだけど。

絶対可憐チルドレン (1) (少年サンデーコミックス)

絶対可憐チルドレン (1) (少年サンデーコミックス)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)

涼宮ハルヒの憂鬱 (角川スニーカー文庫)