『ヨイコノミライ』はほんとに痛いか?

昨年の秋口にネットで話題になった頃から今回こうしたレビュー企画が持ち上がるまで、『ヨイコノミライ』という作品が語られる際に最も消費されたのはおそらく、「痛い」という言葉だろう。しかし正直な話をすると、「大変に痛い漫画である」という『ヨイコノミライ』評に対して、僕は反吐が出るほど嫌悪感を抱いていた。この漫画を読んだ多くの人がその「痛い」という言葉だけで作品を語り切ろうとするのに出会った時、自分にはそれは「語る」というよりもむしろ、「片付ける」という言葉が相応しいような、そんな気がしたのである。たしかに『ヨイコノミライ』は、痛い。しかし、「ヨイコノミライは痛い」という言葉は、一面真実を完璧に捉えてはいるけれども、一面においては何も語っていないに等しい。

『ヨイコノミライ』その痛みの本質 〜持たざる者の物語〜

 半分は賛成するけれど、のこり半分はピンと来ないかな。

 つまり、「『ヨイコノミライ』は「痛い」という言葉だけで片付けることは出来ない作品だ」という意見には賛成する。しかし、「たしかに『ヨイコノミライ』は、痛い」という意見には、そうでもないと感じる。

 ぼくはこの漫画、それほどきらいじゃないんだけれど、ただ「痛い」かというと、とくにそうは感じなかった。だれだったか、「痛い」というより「イタい」漫画だ、と書いていたと思うけれど、ある程度はその言い方も納得がいく。

 たしかに、この作品には「イタい」オタクがたくさん登場する。自分では何も作れないくせに他人の批判ばかりしている少年、ストーカーまがいの腐女子の少女、太った肉体にコンプレックスをもった少女、その他たくさん。

 でも、その「イタさ」が本当に「痛い」かというと、そうでもないと思うんだよね。少なくともぼくにとっては大して痛くない。

 もちろん、ここらへんは個々人の感性だからそこで議論しても仕方ない。でも、必ずしも「痛い」とは思わないひともいますよ、ということはいっておいてもいいと思う。

 きづきあきらの漫画では、むしろ『モン・スール』辺りのほうが「痛」かった。なぜか? 結局、『ヨイコノミライ』のオタク少年少女たちの「イタさ」は、予定調和でしかないからだと思う。

 「オタク」に対するある種のパブリック・イメージをそのままなぞっているに過ぎない。だれもがあまりにもそれらしい。

 もちろん、単なる書き割りというレベルを超えた迫力はあると思う。どこかにこんな奴がいるかもしれない、いや、いるだろう、そう思わせるリアリティもある。

 しかし、それでもなお、そこに何かしらの斬新さはない。何もかもあまりにも「いかにも」過ぎ、「イタ」すぎて、かえってわざとらしい気がした。

 ただ、作者を責めるつもりにはなれない。知っているひとは知っている通り、この作品は、出版社の側の問題で、途中で完結することを余儀なくされている。

 もし、そうでなかったら、また別の結末があったかもしれない。また、もし、初めてきづきあきらの作品を読むのだったら、異なる感想があったことだろう。

 リンク先では、「つまるところ、『ヨイコノミライ』の「痛さ」というのは救いを求めた漫画に、「漫画なんかに救いを求めるんじゃねぇ!」と説教される救われなさ、というメタ作品的な所にある」としている。

 しかし、いまとなっては、その種の説教も目新しくはない。というより、はっきりと陳腐になってきているように思う。それは、いってしまえば、『嫌オタク流』あたりの説教と大きく変わらない。

嫌オタク流

嫌オタク流

 ここにはたしかに告発がある。しかし、その告発は、ぼくの胸をえぐらない。逆にいえば、この程度の告発は、ずっと昔から自分に対して行っているということだ。

 どちらかといえば、この意見のほうが納得がいく。

 別の場所で記したように『げんしけん』という作品は、前半では描かれていた「他者」が後半ではきれいに消去されている。ここでいう「他者」とは、言語ゲーム(前提)を共有しない者のことであり、『げんしけん』の場合「オタク」の外側にいる者である。つまり『げんしけん』は物語が進行するにつれて「オタク」の外側との軋轢がなくなり、「楽園」へと篭っていってしまうのである。

「痛さ」については既に記したとおりである。確かにそこには「痛さ」のようなものはあるが、それはもはや懐かしき「むずかゆさ」と言う方がしっくりくる。「萌え」については、ここで書くようになってから何度も繰り返しているように、「萌え」という感情が分からなかったのでぼくは「オタク」を名乗るのをやめた。あれから一年以上が経過したが、結局のところ「萌え」というのは江藤の言う「共有される沈黙の言葉の体系」に思えてならない。少なくともぼくにとっては。

 ただ、ぼくはいつだって、「個」として生きてきたと思っているし、じっさい、この手のオタク系サークルに入ったこともない。この漫画に「痛み」を感じ取れないのはそのせいかもしれない。

 ぼくにとって、本当にインパクトが大きかったのは、何度もくり返し述べていることだけれど、『らくえん』のほう。

らくえん ~あいかわらずなぼく。の場合~

 『らくえん』は、まさに上記リンク先でいう「楽園」の、その崩壊の物語だ。

「……ムーナスって、どういう意味なんです?」
「月と地球」
「そうじゃなくて」
アバロン、エデン、タネローン、パラダイス。……呼び方なんてなんでもいいんだけど。楽園って意味よ」

 主人公は零細エロゲ企業ムーナスに入って働くことになるんだけれど、そこでは膨大なオタクネタが飛び交っている。ほとんどの登場人物がエロゲオタなので、説明はいらない。まさに『げんしけん』的な、オタクサークル的な「楽園」。

 しかし、その「楽園」は、最終的に完全に崩壊する。ムーナスは必死になってソフトを完成させたり、させられなかったりするが、いずれにしろそのソフトは売れず、企業は消滅、メンバーはばらばらになる。

 ここには内なる「楽園」と外なる「現実」のあざやかなハイライトがある。しかし、それでいて、決して「現実に戻れ」という説教には回収されない。

 これが好きなんだよね。こうなったら一生布教してやろう。DL販売してくれたことはほんとにありがたい。Amazonじゃ高値沸騰しているので、さすがに薦められない。

 オタク系のフィクションでは、個人的にはこの作品が一番おもしろかった。それに比べると、『ヨイコノミライ』からは、「むずがゆさ」以上のものを読み取れなかった。

 いかにも悪意あふれる「イタさ」の描写はぼく好みでなくもないんだけれど、きづきあきら過渡期の作品、という印象。『いちごの学校』まで行くと、もっと洗練されてくる。

いちごの学校 (ヤングキングコミックス)

いちごの学校 (ヤングキングコミックス)

 ペトロニウスさんがいつか書いていたことだけれど、この作家が進化するとすれば、それは、ハッピーエンドを描くようになったときだろう。

 そのときは来るだろうか?

 参考記事:「堕落する準備はOK?」