金庸の世界へようこそ。


金庸とは誰か?■

 金庸

 あなたが大衆娯楽小説を好んで読むひとなら、この名前を憶えておいて損はない。

 かれこそは中国の武侠小説の大家であり、その作品はことごとく(文字通りことごとく)映画化・ドラマ化・漫画化・ゲーム化され、大衆的人気を集めている。

碧血剣(へきけつけん)DVD-BOX1

碧血剣(へきけつけん)DVD-BOX1

笑傲江湖 (説明扉付きスリムパッケージ版)

笑傲江湖 (説明扉付きスリムパッケージ版)

 チャウ・シンチーの『少林サッカー』をご覧になった方なら、意味がわからないギャグがいくつか混じっていたことに気づいたはず。

 金庸の小説が元ネタである。香港を初めとする中華圏では、すでに金庸作品の知識は「常識」であり、説明なく使用できるのだ。

 さらに金庸の魅力は香港、シンガポール、タイ、ベトナムなどの東アジア全域でよく知られている。韓国製やシンガポール製金庸ドラマが実在することがその証拠である。

 いってしまえば金庸はアジア最大の人気作家であり、そしてたぶん最高の娯楽作家である。

 その作品の特色を一言で表すなら、おもしろい!ということに尽きる。

 タイトルが漢字ばかりだから、むずかしく、とっつきにくいように思えるかもしれない。誤解だ。金庸の作品はどれも、平均的な中学生程度の読解力があれば十分に読みこなせる。

 読みこなせる? いや、その世界に嵌まり、溺れ、夢中になって読み耽ること請け合い。とにかく、これくらい、「物語」の興奮を思い出させる作家はいない。

 剣戟から恋愛まで、戦争から愛憎まで、悲劇から喜劇まで、ありとあらゆる素材を扱いながら、しかしその読後感はあくまでさわやか。

 しかも、ただおもしろいだけではなくシリアスな問題を考えさせる。その作風は、そう、日本の作家にたとえるなら、司馬遼太郎山田風太郎を足してかき混ぜ、ライトノベル少女小説を適当に振りかけた、というところだろうか。

 金庸は、そういう奇跡的な作家である。こんな作家を読みのがすなんてもったいない!

 あなたが平凡な人生に退屈しているなら、金庸を読むべきだ。あなたが飛び切り痛快な活劇を求めているなら、金庸を読むべきだ。あなたが切なくも美しい恋愛小説を求めているなら、金庸を読むべきだ。とにかく何でもいい、おもしろい小説を読ませてくれ、そう思っているなら、やはり金庸を読むべきだ。

 ぼくは何も出版社の回し者ではない。しかし、これほどの作家が、日本では知られないまま忘れられていくことは我慢ならない。

 そこで、ここから下で、金庸がいかに偉大なのか、くわしく解説していくことにしたい。

武侠小説とは何か?■

 まず、金庸を語る前に、武侠小説というジャンルについて説明しておこう。

 日本の小説しか読んでいないひとには耳慣れない言葉だろう。しかしまあ、決してむずかしい「文学」ではない。

 ようするに妖術奇術乱れ飛び、好漢怪人が割拠する、古きよきチャンバラ伝奇小説だと思えばいい。

 初めは読みなれない専門用語が飛び出して面食らうかもしれないが、日本の少年漫画に親しんだことがあるひとなら理解はむずかしくないはず。

 とにかくさまざまな奇怪な武術を習得した達人たちが、さまざまな目的や野心を抱え、中国大陸狭しと駈けまわる痛快娯楽小説なのである。

 金庸はそのなかでも大家と呼ばれる三人のなかの一人である。ほかの二人は、映画『セブンソード』の原作『七剣下天山』の作家、梁羽生と、代表作『多情剣客無情剣』で知られる古龍

七剣下天山〈上〉 (徳間文庫)

七剣下天山〈上〉 (徳間文庫)

多情剣客無情剣〈上〉 (海外シリーズ)

多情剣客無情剣〈上〉 (海外シリーズ)

 それぞれ個性的な作品を書いているが、ここは金庸の話をするところだから、かれらについての話はまた別のチャンスを待つことにしよう。

 とにかく、この三人を初めとする、無数の作家たちが生み出した作品によって武侠小説の世界は形づくられている。

 その世界は、主に「江湖」と呼ばれる侠客たちの社会を舞台とし、好漢とも無頼漢ともいえるかれらアウトローたちの丁々発止のやり取りを描いている。

 神秘的な武術や魔法としか思えないような宝具が飛び出すこともあり、半現実半幻想の世界といっていいのではないかと思う。

 金庸の特色は、この武侠小説の世界に、成長物語の要素を持ちこんだところにあった。これからその点について解説しよう。

金庸作品の魅力。■

 アジア各地で武侠小説に手を出した作家は、何百人、あるいはそれ以上に上るだろう。なぜ、そのなかで金庸が最高の地位を占めるのか?

 それは、かれがその作品で武侠小説の可能性を極限まで追求しているからだ。とにかく、ありとあらゆる方面に手をのばし、しかも成功している。

 その長篇は全部で十二。中短編は三。すべて邦訳されている。翻訳はかならずしも完璧ではないといううわさは聞くが、とにかく、金庸の作品を日本語で楽しめる幸運を喜ぶべきだろう。

 もともとはすべてハードカバーで発売されたが、現在、文庫化が進んでおり、すでに主要な作品は文庫で読むことが出来る。

 何冊にもおよぶ大長編をハードカバーでそろえることは大変だろうから、まずは文庫で集めてもかまわない。いずれにしろ、その作品のおもしろさに変わりがあるわけではない。

 さて、金庸の作品の特徴、それは、まず第一に魅力的な人物である。それに尽きる。

 かれは少年の成長物語としての武侠小説を完成させた第一人者だ。だから、多くの作品で、主人公はまず未熟な少年として登場し、ときに幸運に恵まれ、ときに不運に遭遇しながら、次第に大人物へ成長していく。

 象徴的なのは『射雕英雄伝』の主人公、郭靖だろう。かれは物語に登場したとき、未熟というより愚鈍な少年に過ぎなかった。

 だれもがその人柄を好みながら、しかし、かれの頭脳明晰ならざることを惜しんだ。しかし、この少年は、やがて「郭大侠」として、武林(武術家たちの社会)で尊敬を集める英雄へ成長していくのである。

 また、『神雕剣侠』の主人公、楊過は、初め兇暴なほどに反抗的な少年だったが、長じて人格を整え、その美貌のために多くの女性たちを惑わしたことを省み、自ら醜い仮面を被って世をさすらう、耽美的なヒーローとなる。

 このように、金庸の主人公たちはひとりひとり実に魅力的で、しかも個性的、おどろくほど方向性が異なる個性をもっている。

 憂愁の美青年もいれば、酒好きの好青年もいる。あなたが男性でも女性でも、好きになれる人物を見つけられること間違いなし。

 一方、かれらと対をなすヒロインたちも負けてはいない。もし、だれかに日本の時代小説と武侠小説の違いをひとつ述べよ、といわれたなら、ぼくは女性陣の活躍を挙げることだろう。

 日本の時代小説でも、たしかに魅力的なヒロインはいる。しかし、それでも、常識から来る一定の制約がそこにある。

 武侠小説にそんなものはない。とにかく可憐で奔放、あるいは清楚、あるいは妖美な美女、美少女たちが山のように登場する。

 なかでも金庸は可憐な小悪魔的美少女を得意とする。彼女たちはしばしば男装して男たちと渡り合う。

 日本人の感覚としてはちょっと不思議なことに、武侠小説の世界では、腕力の違いはさほどのハンディにはならないらしい。

 武術を修めさえすれば、かよわい婦女子でも豪腕の男たちと対等以上にたたかえるのである。

 ここでひとりひとりヒロインたちについて語りはじめたら終わりが見えない。『射雕英雄伝』のヒロイン、黄蓉について話して終えることにする。

 容姿端麗にして料理上手、口八丁の手八丁、頭はいいが性格に難あり、というこの美少女は、金庸の最も典型的なヒロインだ。

 邪悪とすらいえるほどモラルが欠けた性格のもち主なのだが、朴訥な郭靖に惚れこみ、かれの言葉だけを信じるようになる。やがて、郭靖の妻となり、かれの子供を産むのだが、そうなってもあまり性格は変わらない。

 金庸の作品にはこの手の「萌えキャラ」が山のように登場する。妹系、幼馴染み系、ツンデレ系、ヤンデレ系、メイド系、その他、何でもあり。ライトノベル好きは絶対に金庸を読むべきだ。

 また、ときに主人公やヒロインを圧倒する脇役たちもすごい面子がそろっているのだが、それについても語っていると際限ないので、ここでは割愛する。

 もちろん、金庸の魅力は人物だけではない。その雄大なプロット! 武侠小説の舞台は当然中国大陸だが、金庸の小説ではときに舞台は中国を越える。

 はるかな北方モンゴル平原に遊ぶこともあれば、西方ロシアに旅することもある。果ては南極大陸の近くにまで流されることすらある!

 そこにあるものは、狭い日本列島のなかで繰りひろげられるそれとは次元の違うドラマだ。

 文化と文明を守ろうとする中華の民と北方の遊牧騎馬民族がしのぎを削りあい、ときに友誼を結び、ときに裏切りあう、そんな世界。

 ヒロイック・ファンタジーすれすれの、壮大なロマンの世界がそこにある。ぜひ、あなたもそこへ旅立ってほしい。

武侠小説の巨人 金庸の世界

武侠小説の巨人 金庸の世界

金庸の作品。■

 以下、金庸の作品をひとつひとつ解説していく。本当はこんな短文で説明し切れるものではない。あくまで軽い紹介であるが、参考になれば嬉しい。書影は上がハードカバー版で下が文庫版。

書剣恩仇録★★★★

書剣恩仇録〈1〉秘密結社紅花会 (徳間文庫)

書剣恩仇録〈1〉秘密結社紅花会 (徳間文庫)

 全4巻。

 金庸先生のデビュー作。そしてたぶん彼の長編のなかでは最低の出来だろうと思う。

 ぼく個人がそう思っているだけでなく、本場の香港でもこの作品の評価はかなり低いらしい。

 しかし、つまらない小説なのかといえばそんなことはない。波瀾万丈、奇想天外、日本の時代小説のせせこましいスケールに慣れた読者には、想像もつかない世界だ。

 ただ、ほかの作品が凄すぎて比較すると霞んで見えるだけのこと。

 もっとも、処女作ということもあり、やはりまだいろいろな点で金庸独自の様式が確立されておらず、『水滸伝』のような古典的な作品の世界観を流用している雰囲気が伺える。

 お約束の男装の美少女などは既に出てくるのだが、武侠ビルドゥングス・ロマンという、金庸独特の世界が完成していくのは次作以降のことになる。

 ただし、漢民族を圧迫する大清帝国の皇帝・乾隆帝が実は漢民族だった、という『アドルフに告ぐ』のような歴史小説的アイディアを基盤にしているので、武侠小説にくわしくない日本の読者にも入りやすいかもしれない。

 この作品の主人公は、乾隆帝の弟で反清組織「紅花会」の領袖という設定。よりにもよって大清帝国の弟が反清組織の親玉というこの発想。ここには漢民族=主役、侵略民族=悪役という図式が明確に存在する。

 それを形骸化した中華主義の現れというのは簡単だが、この図式は、じっさいに何百何千万という人々の生活が、異民族の侵略によって踏みにじられてきた歴史に根ざしていることを忘れてはならない。

 しかし、この図式はこのあと作品を追うにしたがって崩れていく。この図式の変化は金庸の作品を追いかけることの楽しみのひとつだ。

碧血剣★★★★

碧血剣〈1〉復讐の金蛇剣

碧血剣〈1〉復讐の金蛇剣

碧血剣〈1〉復讐の金蛇剣 (徳間文庫)

碧血剣〈1〉復讐の金蛇剣 (徳間文庫)

 全3巻。

 金庸の第二長編。後期作品のあくの強さと比べればちょっと物足りない作品ではあるが、金庸武侠小説の基本的なスタイルは、すでにこの時点で確立されている。

 時代は『書剣恩仇録』からさかのぼり、明末清初(明が亡び、清が始まる時期)の動乱期。主人公は、誣告を信じた暗君によって殺された明の将軍袁崇煥の遺児。

 金庸は、かれが偉大な師匠のもとで修行を積み、清の侵略と戦うさまを、終始、さわやかな筆致で描いている。つまりこの作品においても漢民族=主役、侵略民族=悪役の図は動かないことになる。

 しかし、明の滅亡が異民族の侵略のためだけではなく、暗君の暴虐によっても引き起こされたものという事実は丹念に描きこまれており、後年の飛躍を予想させるものがある。

 とはいえ、この小説において印象的なのはなんといっても主人公の師匠にあたる若者、「金蛇朗君」こと夏雪宜だろう。この若者、何と物語に登場した時点で、すでに死亡してしまっている。よって読者が知るかれの性格や事跡はすべて伝聞によるものに過ぎない。しかし、金庸の筆はあざやかに故人の性格を浮かび上がらせる。

 比類ない剣の天才で、だれに師事するでもなく、「金蛇剣法」という独自の技を自ら編み出すほど。その性格は邪悪ではないが、決して善良でもない。

 自分が気にいった者に対しては親切にふるまうが、きらう者は殺しても何とも思わない。「家族を5人殺された復讐のため、敵50人を皆殺し」という、その行動そのものが、何よりかれの性格を物語っているだろう。

 とにかく陰湿で残忍で気まぐれな男、しかしその愛情は激しく、畢竟、この世でただひとり愛した女が足かせとなり、宿敵に敗れることになる。

 実に陰影にとんだ魅力ある人物というしかなく、はっきりいってぼくはくそ真面目な主人公なんかよりよっぽど好きですね。

 金庸の後期作品には、こういう善悪さだかでない人物がたくさん登場する。


雪山飛狐★★★★

雪山飛狐

雪山飛狐

 全1巻。

 第三長編にして、異色作のひとつ。

 というのも、この作品、ミステリ仕立てになっているんですね。名探偵こそ出てこないけれど、各人物による情報のばらしあいにより、次第にかくされた真実が明らかになっていく。

 金庸作品には時々このようなミステリっぽい趣向が登場するものの、1冊すべてミステリとなっているものはこれしかない。

 本書で描かれる「謎」は、100年前に亡くなったはずの英雄、李自成が生きのびていたのではないか、というもの。

 その意味で、英雄としてあがめられた李自成が自滅するまでを描いた『碧血剣』の続編といえないこともない。

 また、ミステリ仕立てである一方、100年間におよぶ血で血を洗うあらそいの歴史が関係しており、大河小説の魅力もある。

 金庸の長篇では、常にいくつものエンターテインメント要素が絡んでいるのである。

 この物語の主人公は、「雪山飛狐」の異名で知られる若き剣客。しかし、かれが物語に登場するのは、全体の約3分の1に過ぎない。

 それまでは次々と新しい登場人物が出てきて、「こいつが主役かな?」と思わせるものの、実はそのいずれもことごとく脇役、しかも悪人という展開が凄まじい。

 金庸作品には、このように、主役が遅れて出てくるものが少なくない。その最も印象的な一例は『秘曲笑傲江湖』だろう。が、本作もかなりのものだ。

 なお、この作品の結末は金庸の全作品のなかで最も賛否両論を生む。「この結末では納得できない!」という読者は日本にも海外にもたくさんいるようだし、ぼくもその気持ちはよくわかる。

 とにかく破格の結末だ。具体的にどのような結末なのかは、ご自分の目で確認していただくよりほかないけれど。

●『射雕英雄伝★★★★★

射雕英雄伝 〈1〉砂漠の覇者ジンギスカーン

射雕英雄伝 〈1〉砂漠の覇者ジンギスカーン

射雕英雄伝―金庸武侠小説集 (1) (徳間文庫)

射雕英雄伝―金庸武侠小説集 (1) (徳間文庫)

 全5巻。

 第四長編。

 そして〈射雕三部作〉の開幕編。この時点でわずか4作目に過ぎないが、金庸の小説世界は、この作品によって完成を見る。

 物語の展開でも、人物の性格づけでも、この作品で、ある意味では完璧な典型が生み出されている。じっさい、中国では、金庸の生み出した数あるカップルのなかでも、この作品の二人の主人公最も人気があるそうな。

 この作品以降、金庸はこの作品で確立されたパターンを打破する方向へ進んでいくことになる。その打破の仕方がまた凄いんだけれど、とにかく本作が金庸の代表作であることは間違いない。

 時代背景は大宋帝国の末期。宋と金、二つの大国が争いあうなか、北方でモンゴルが牙を研いでいた時代。

 主人公はモンゴルで育った漢人の若者、郭靖。かれはのちに江湖の大英雄として歴史に名をのこすことなるのだが、物語が始まった頃は、ごく純朴で、どちらかといえば愚鈍ですらあるような、平凡な少年に過ぎない。

 この物語では、その平凡な少年が、生来の生真面目な性格により大きく成長していくさまが、すべてにおいてかれと正反対の美少年、楊康の破滅と照らし合わせて描かれている。

 こういった手法が完成されたという意味で、記念碑的な作品である。主人公が苦悩と苦難の果てに成長していくところに金庸の特色があり、だからこそ、かれの小説は武侠ビルドゥングス・ロマンといわれるのである。

 さて、郭靖はまぎれもなく漢人で、漢人国家の宋に対し、強い愛国心を抱いている。しかし、かれが育ったのはモンゴルの草原であり、物語の序盤ではチンギス・ハーンの娘の結婚相手に選ばれてしまったりする。

 この作品では、モンゴル人は決して悪の権化ではない。それどころか、ある意味では、デカダンな文化をもつ漢民族よりもよほど素直で魅力ある人々である。

 漢民族を主役、侵略民族を悪役とする例の図式に、ここで、ついに、ひびが入ったわけだ。このひびは次の『神雕剣侠』ではさらに激しく広がっていくことになる。

神雕剣侠★★★★★

神鵰剣侠 第1巻 忘れがたみ

神鵰剣侠 第1巻 忘れがたみ

神雕剣侠〈1〉忘れがたみ (徳間文庫)

神雕剣侠〈1〉忘れがたみ (徳間文庫)

 全5巻。

 『射雕英雄伝』の十数年後の中国を舞台とした直接の続編で、〈射雕三部作〉の第二弾にあたる。

 金庸の作品はすべて何かしらの意味でラブストーリーなのだが、なかでも、これこそ最大の純愛物語といえると思う。

 最近はおもしろいメロドラマがないよね、と嘆いているひとは、ぜひこの作品を読んでほしい。この物語は、いたずらな運命にもてあそばれつつ、出逢っては別れ、別れては再会する、王道メロドラマそのものである。

 しかし、だからといって甘い展開を予想しないでほしい。この作品の主人公に降りかかる災難は、前作よりはるかに過酷だ。

 郭靖はその誠実な人柄で多くのひとから好意を集めたが、本作の主人公には味方らしい味方がいない。おまけに、かれは自分の責任でもない事情で、多くの人びとから憎まれている。

 悲劇のヒーロー、その名は楊過。『射雕英雄伝』でかずかずの陰謀を繰り広げた末、破滅した、あの楊康の実の息子である。

 父から優れた美貌と頭脳、母から優しい心を受け継いだかれは、郭靖とはなにもかも正反対の性格だ。郭靖は何事につけひとより遅れる男だが、誠実でひとの信頼を裏切ることがない。

 楊過は何に対しても天才的な才能を見せるが、なまじ聡明なせいか、それとも父を知らず、早くに母を亡くし、孤児として育った境遇のせいなのか、その性格は短気で反抗的、納得がいかないものに対しては、どれほどの権威であろうとかまわず噛み付く。

 楊過は、その性格のため、多くの敵をつくっていく。しかし、その心は深く愛情に飢えており、自分に優しくしてくれるひとのためには、命さえ惜しむことはない。

 この飢えた狼のような少年は、多くのひとに愛されながら成長していった郭靖とは反対に、ただひとり、だれを頼ることもできない孤独のなかで成長し、やがて「神雕大侠」と呼ばれる英雄へと育っていく。

 しかし、その過程では侵略者の元に力を貸したりもしている。もはやここでは、例の図式はほとんど意味をなくしかけていることがわかる。

 そもそも、社会から阻害されて育った楊過の心に、愛国心はほとんどなく、あるのは姉弟子、小龍女への愛のみ。

 猛る炎のような楊過と、静かな水のような小龍女は、全くちがう性質の持ち主だ。しかし、このふたりは幾多の試練を越え、たがいにとって理想の恋人となる。

 この作品が、武侠小説史上最大のラブストーリーといわれる所以である。

飛狐外伝★★★★

 全3巻。

 タイトルからわかるように、「雪山飛狐」こと胡斐の修行時代の冒険を描いた外伝。

 しかし、外伝なのに本編より3倍も厚く、しかも本編とまるで展開が整合していない、とんでもない小説。こっちが本編で、『雪山飛狐』が外伝なのではないかと思えるくらい。

 しかし、一々そんなことを気にしていては、金庸の読者はできない。ここは別の話と割り切って読むことにしよう。

 じっさい、両作品はほとんど完全に独立していて、その内容にはほとんど何の関係もないし、どちらから読みはじめてもかまわない(僕は「外伝」を先に読むことをお奨めする)。

 ぼくには、金庸先生がなぜわざわざ既存の作品の外伝という設定でこの物語を書こうと考えたのかよくわからない。

 この物語には『射雕英雄伝』のような歴史性はあまりない。一応、歴史上の人物も出てくるが、なかば架空の人物のような描かれ方をしている。

 しかし、「秘曲笑傲江湖」のように極端に伝奇色が強く、ほとんどヒロイック・ファンタジーのような世界観と化しているというわけではない。金庸の作品のなかでは中庸的な位置にある。

 おまけに主人公の性格に楊過のような暗さがないので、明るく楽しく読める痛快娯楽作品に仕上がっている。

 もちろん、金庸作品の特徴である悲劇性はこの作品にも見られるが、主人公が陽性の性格の持ち主なので、それもあまり気にならない。

 内容の明朗快活さという点では、『碧血剣』と並んで金庸の作品中のナンバー1なのではないだろうか。その点、あとで紹介する『連城訣』と比べたら天地の差だ。

 『書剣恩仇録』のキャラクターたちが再登場しているので、あの作品を既に読んだ読者は、そういう意味でも楽しめるはずである。

倚天屠龍記★★★★☆

 全5巻。

 〈射雕三部作〉の完結編にして、金庸の第7長編。つまり金庸の長編全12作品の、折り返し点にあたる。

 そう考えて読むと、この作品あたりから金庸の作風が次第に変化していくのが見て取れる。人間描写がよりどぎつく、ダークになっている。

 決して、金庸の特色である明朗快活さがなくなったわけではないのだが、ここらへんから、脇役の陰湿さに凄まじいものが見えはじめる。

 金庸の小説でも、最初の『書剣恩仇録』あたりでは善人と悪人の比率は五分五分というところで、世の中には善人もいれば悪人もいる、あまり人間を信じすぎるのも疑いすぎるのもよろしくない、といった雰囲気だった。

 しかし、このあとはどんどん悪人の比率が増していき、人間はとにかく信じられない、という空気になっていく。しかし、それでも人間を信じられないようだと金庸作品の主人公たる資格はない。

 この物語の時代背景は、前作の100年ほどあと。すでに宋は滅び、中原はモンゴルに支配されている。これを漢人の手に奪い返すことが、今回の主人公張無忌の役目。

 しかし、この張無忌、一見温厚だがその実頑固なところがあり、通すべき筋はきちんと通す郭靖や、世の中の不正や不条理に対して炎のように反発する楊過に比べると、性格が実に優しくできている。

 そのおかげで人望が集まるのはいいのだが、その反面、優柔不断で、特に恋愛面でその弱点が顔を出す。

 生涯小龍女ひと筋、どんな美女にいいよられても小ゆるぎもしなかった楊過の爪の垢を呑ませてやりたいくらい。そのため、かれは、女性関係でとにかくひどい目に遭う。

 女性の存在感がやたらに強い金庸作品のなかでも、この張無忌こそは女難ナンバー1といっていいだろう。

 そもそも、この作品そのものが、あきらかに「女難物語」として構想されている。

 ヒロインは幼馴染みの女の子から敵対するモンゴルの王女、健気な召使いの娘、毒使いの少女、と、いずれ劣らぬ美女が揃っているんだけれど、この4人がひとり残らず張無忌に対して秘密を抱えていて、あるときはかれを助け、あるときは惑わす。

 ここらへんは完全に日本のラブコメ漫画と同じノリ。武侠小説版『いちご100%』といってもいいくらい。ただし、その陰湿さは半端ではなく、うかつに恋にうつつを抜かすとそりゃもう大変なことになる。

 何しろラブコメの行方に国家や民族の命運がかかってしまっているのだから凄まじい。

 もちろん、最初から最後までラブコメばかりやっているわけではない。金庸は、この恋愛物語に、それを手にするものが武林を統一するという伝説を持つが呪われた宝物「倚天剣」と「屠龍刀」を絡め、壮大なロマンを描き出していく。

 この二本の刀は、ある意味で〈射雕三部作〉を象徴するものであり、その正体が判明する場面では、これまで三部作を読んできた読者はかならず感動できる、と思う。

天龍八部★★★★☆

天龍八部〈第1巻〉剣仙伝説

天龍八部〈第1巻〉剣仙伝説

 全8巻。

 第八長篇。

 『鹿鼎記』と並んで最も長く、そしてやはり『鹿鼎記』と並び称される金庸の最高傑作といわれる作品である。

 おそらく、武侠小説全体を見てもきわめて重要な意味を持つ作品であろうと思われる。というのも、この小説が中国の抱える民族問題に正面から切り込んだ内容であるからだ。

 金庸のほかの作品と異なり、この長編には4人の主人公がいる。段誉、喬峯、慕容復、虚竹。それぞれ別の国家、別の民族に属するこの4人が、時に争いあい、時に協力しながら過酷な戦いを生き抜いていく。

 しかし、正直いってこの作品、第1巻、第2巻のあたりはいまひとつおもしろくない。

 これはこの2冊で主役を務める段誉という若者にどうも魅力が欠けているのが原因だと思う。

 第3巻で第二の主人公、喬峯が登場したあたりから一気におもしろくなってくる。この喬峯こそは金庸が描いてきた数々の好漢のなかでも一、二を争う快男子だといえるだろう。

 これまでの作品の主人公、郭靖や楊過はなにも持たない状況からすこしずつ成長していってついに強力な武術を身につけるに至った人物だった。

 しかし、喬峯は登場時から武林で一、二を争うほどに強く、深い人望があり、人間的にも成熟していて、ほとんど文句のつけようがない人物だ。

 「男のなかの男」という呼称はこの男のためにこそある。しかしそれだけに喬峯が乗り越えなければならない試練は壮絶をきわめる。

 かれはそれまで漢人のために契丹人の侵略者と戦っていたのだが、実は契丹人の出生であるという秘密が暴かれるに至り、かつての仲間たちから裏切り者とみなされ、命を賭けてかれらと戦う羽目になる。

 この展開は、「自分は侵略側の民族だと思っていたのに、実は漢民族だった」という『書剣恩仇録』の乾隆帝や、『射雕英雄伝』の楊康の人生を逆転したものだ。

 かれらの場合は出生の秘密をあかされたあと、「漢民族のために戦え」と求められることになるわけだが、喬峯は自分がこれまで命がけで戦ってきた敵のがわに所属する立場だと知らされるのである。

 かれは、この暴露によって文字通りすべてを喪い、そしてその過程で次第に本当に漢人ばかりが正義といえるのか思い悩むことになる。

 これまでの作品のなかですこしずつひびが広がってきた漢民族主人公型の図式が、ここにおいてついに完全に崩壊したわけだ。

 武侠小説にとって革命的ともいえる展開であったらしい。武侠小説にとって、主人公が漢民族であることはいわば常識中の常識であるらしいのだ。

 否、これはひとつ武侠小説だけの常識ではなく、何千年間にわたって培われてきた中国大衆物語世界全体の常識であったのだろう。

 だが、金庸は堂々とその最大のタブーを崩してのけた。

 そしてかれは読者に問い掛ける。民族とはなにか。国家とはなにか。ひとはどう生きることが正しいのか。

 生まれがあばかれた途端、喬峯が受けることになる迫害はほとんど日本人の想像を絶している。それまで忠誠をつくしてきた部下たちが、突然刃をかまえて襲い掛かってくる。

 なかにはかれのおかげで命が助かったものもいるというのに!

 この壮絶な差別の嵐の前には、「人間はみな平等だ」などという綺麗事は色を喪う。そして喬峯の前にはさらに絶望的な運命が待っている。

 異民族間の憎悪というものがいかに根深いものなのか、この作品ほど真に迫る迫力で伝えるものはない。

 余談だが、この作品の執筆にはおもしろいエピソードがある。金庸が自分の経営する新聞に『天龍八部』を連載していたあるとき、かれは外国へ旅行することになった。

 しかし、新聞の目玉である連載小説に穴をあけることはまずい。しかたなく金庸は知人のある作家に代筆を頼んだ。

 ところが、この作品のあるヒロインの邪悪な性格を嫌ったその作家は、金庸には無断で勝手に彼女を盲目にしてしまう(!)。

 驚いたのは帰国した金庸。旅行から帰ってみたら自分が知らないうちに予想もしないような展開になっているのだ。さぞ頭を抱えたに違いない。

 こんな事件があったせいばかりではないだろうが、この『天龍八部』、作品の完成度という意味では、あまり高くはないと思う。

 やたらにおもしろいところと凡庸なところの差が激しく、一貫しておもしろいとはいいづらい。だが、その主題の斬新さと冒険性においては、金庸の十二の作品のなかでも、まずこれが第一に挙げられることはほとんどまちがいがない。

連城訣★★★★

連城訣〈1〉菊花散る窓

連城訣〈1〉菊花散る窓

連城訣〈上〉菊花散る窓 (徳間文庫)

連城訣〈上〉菊花散る窓 (徳間文庫)

 全2巻。

 いままでさんざん書いてきた通り、『碧青剣』以降の金庸の作品は、ほとんどすべて何らかの点である方向性の頂点をなしている作品ばかりなのだ。

 そして、この『連城訣』には万人が認める「金庸作品中ナンバー1」の要素がひとつある。「主人公がひどい目にあう作品ナンバー1」である。

 とにかくこの「連城訣」の主人公狄雲(てきうん)は、作中で徹底的に不幸な目に遭う。

 もともと、金庸の小説では主人公は軽く普通の長編小説10冊ぶんくらいの災難を背負い込むことになっている。その程度のことを解決できないようでは金庸作品の主人公たる資格はない。

 しかしそれにしても狄雲の場合はあまりといえばあまりだ。僕はいままで何千冊も小説を読んできてここまで不幸な奴をほとんど見たことがない。

 物語そのものはあきらかに大デュマの『モンテ・クリスト伯』を下敷きにしているのだが、モンテ・クリスト伯爵ことエドモン・ダンテスに同情してもらえそうな悲惨さである。

 まず殺人の濡れ衣を着せられ、この世でいちばん愛する幼馴染みの少女にも疑われ、おまけにその少女は自分を陥れた男と結婚してしまい、そのうえ両手の指を数本切り落とされた上、武術を使えないよう肩に穴をあけられてそこに鎖を通され、文句をいえば小便をぶっかけられ、そのまま日のささない極寒の牢獄で何年もすごし……これでほんの序の口。

 登場人物のほうもこれでもかとばかりに極悪人ばかりで、不幸な境遇ではあるものの根は善良な狄雲は、その想像を絶するエゴイズムの嵐のなか、孤独にさすらうことになる。

 だが、ただひたすら陰惨なだけのお話なのかといえばもちろんそんなことはない。これほどダークなエピソードの連続であるにもかかわらず、すべてはきちんと収まるべきところに収まり、物語はハッピーエンドで幕を閉じる。

 金庸作品のなかでもそうとうマニアックな作品だといえると思うので、だれにでも無条件でお奨めできるわけではないが、読めばきっと心に残るなにかを得ることができると思う。


侠客行★★★☆

侠客行〈第1巻〉野良犬

侠客行〈第1巻〉野良犬

侠客行〈1〉野良犬 (徳間文庫)

侠客行〈1〉野良犬 (徳間文庫)

 全3巻。

 日本で出された順番では三番目だが、本国では第十長編にあたる作品。

 この作品では、これまで次第次第に進んできた「主人公のアイデンティティの崩壊」が極限にまで突き詰められている。

 何しろ、主人公の名前は「狗雑種(のらいぬ)」。日本語で聞けばたいしたことがないあだ名のように聞こえるが、これは中国語ではSon of a bitchを意味する最上級の侮蔑後だという。

 「おい、サノバビッチ」と呼ばれる主人公というのも凄いものがあるけれど、この狗雑種くん、名前だけでなく、家系や経歴などすべてがまったく不明。

 当然、漢人としてのプライドなど抱けるはずもない。主人公が名門の貴公子だった『書剣恩仇録』からえらいところまで来てしまったものだ。

 この特異な主人公に、入手した者の願いを何でもかなえるという「玄鉄令」だの、10年に一度あらわれ、それにさからったものは皆殺しにされる「賞善罰悪令」だの、その賞善罰悪令の使者たちによって招待される「侠客島」だのといった妖しげな存在が絡み、物語は二転三転する。

 またこの作品も脇役の造形が凄い。たとえば「一日不過三」という異名のキャラクターが出てくるのだが、こいつが「一日三人以上殺さない」と誓いをたてているというとんでもない奴で、「おれは誓いを守っているのになぜ怨まれるのだ」と不思議がったりする。

 しかも、当然のごとく「一日不過二」とか「一日不過四」という兄弟がいるのである(笑)。おもしろくないわけではないが、初めて金庸を読むひとには向かない作品ではあるかもしれない。個性が強すぎる。

『秘曲笑傲江湖★★★★★

秘曲 笑傲江湖〈第1巻〉殺戮の序曲

秘曲 笑傲江湖〈第1巻〉殺戮の序曲

秘曲 笑傲江湖〈1〉殺戮の序曲 金庸武侠小説集 (徳間文庫)

秘曲 笑傲江湖〈1〉殺戮の序曲 金庸武侠小説集 (徳間文庫)

 全7巻。

 金庸の最後から数えて二番目の長編である。

 そして金庸の全長編のなかで最も伝奇色が強く歴史色が弱い作品であるともいえるだろう。

 したがって本作品には『射雕英雄伝』のような歴史小説的な壮大なスケール感はあまりない(それでも日本の時代小説などとは桁違いのスケールなんだけど)。

 そのかわり、二転三転する物語のおもしろさについていえば、僕がいままで読んだ武侠小説のなかでもまずベストといっていい。とにかくめっぽうおもしろい。

 「一読巻を措くことあたわず」とはこの小説のためにあるような言葉である。具体的に何がおもしろいのか。主人公に次々と降りかかる過酷な運命がおもしろい。

 『連城訣』ほどではないだろうが、この作品の主人公、令狐冲も相当ひどい目にあう。

 親兄弟よりも強い絆で結ばれているはずの師匠や兄弟弟子には裏切られ、最愛の妹弟子には見捨てられ、義侠のために行動を起こせば裏目に出て、自殺したくなってもおかしくない悲惨な境遇に叩き落とされる。

 だが、酒と友と音楽を愛し、友人のためならば惜しげもなく命を投げ出して戦うかれは、まさに「好漢」という言葉がふさわしい人物だ。

 じっさい、かれは金庸の全小説のなかで、いや僕がこれまで読んできたすべての小説のなかでも、最も好きなキャラクターのひとりである。

 その性格をひと言でいいあわらすならば、無類のお人好しというに尽きる。『射雕英雄伝』の主人公も、どうしようもないお人好しの若者だったが、かれはそのおかげでさまざまなひとの人望を集めることができた。

 だが、われらが令狐冲は、その善良な性格のために徹底的に裏切られ、地獄の底まで突き落とされることになる。

 さて、ここでひとつ「武侠小説」という言葉の根本を問い質してみよう。「武侠」の「武」、これはだれにでもわかるだろう。武術や肉体の強さのことだ。

 それでは「侠」とはなにか? これは畢竟、「弱きを助け、強きを挫く」というひと言に尽きると思う。困っているものがいたら助ける。たとえそれが強大な存在に敵対することになるとしても。

 ただそれだけのことなのだが、これが実に並大抵でできることではない。しかし、世の中には、たとえ自分がどれだけ傷つこうともひとを助けずにはいられない大馬鹿者がいる。

 そんな大馬鹿の精神こそが「侠」。この「侠」の精神を持った武術者を「侠客」と呼ぶ。

 令狐冲こそはまさにそんな「侠客」の代表格ともいうべきキャラクターである。

 物語中、かれは何度となく見ず知らずの人間のため勝ち目のない戦いに挑むことになる。

 そもそも、かれの登場にしてからが、面識のない尼僧の少女を助け出すために全知全能を尽くして格上の相手に戦いを挑むさまが、救出されたその少女によって語られる、その場面。

 これが実に素晴らしい。いや、ほんと、この場面を読んで燃えない奴とは友達になりたくないね。

 しかし、そんな報われない令狐冲も、やがて最強の剣客独孤求敗(あまりに強いため生涯負けを求めつづけていたが、ついに負けることができないまま死んでしまったというとんでもないお人)が生み出した絶技、独孤九剣を身につけ、武林有数の剣客として成長していく。

 そうなっても酒と友と音楽を愛し、辛いことがあってもほがらかに生きるその性格はすこしも変わらない。僕は、そんなかれが大好きだ。

 ところで、昨今話題になった香港映画「少林サッカー」には、少林寺拳法を使う主人公が「こんなとき独孤九剣があれば──」と発言して「それは崋山派だろ」とつっこまれるシーンがある。

 これはこの「秘曲笑傲江湖」を背景にしてのギャグである。つまりこの作品は香港人ならだれでも知っているほど知名度があるということなのである。そんなところにも金庸の偉大さはあらわれている。

鹿鼎記?????

 全8巻。

 金庸の12番目の、そして最後の長篇。実は、ぼくはまだ読み終えていない。

 この作品を読み上げてしまうともう読むものがないかと思うと、寂しくて、あえて後回しにしているのだ。しかし、こうなったら、紹介を書かなければいけない。近日中に読むことにしよう。