ひとそれぞれ。オタそれぞれ。

再び横槍……申し訳ない。

邪推ですまないのですが、海燕殿、〝玩具〟にも種類があるのではないですか?

例に挙がったノーベル賞系小説に限らず、大衆小説やバッハやショパンなどのクラシック音楽、落語や漫談等文化という名の玩具は膨大な数があります。

それら全てを、〝玩具〟という部分だけ抜き出してひとまとめにしてはいけませんよ。どれも違った構造を持った〝玩具〟のはずです。ベーゴマと剣玉は全く違いますから。

なので僕は、(勝手ながら)問題となっているのは〝美少女など、玩具に過ぎない〟という部分ではなく、〝美少女という玩具の構造の危険性〟についてなんじゃないか、と思っています。

危険性とは何か? それは美少女たちの持つ自己(プレイヤー)の究極的な肯定です。

えーと、メディアに関わらず、終局において彼女たちはプレイヤー(が感情を託した分身)に恋慕、ないしは憧れを抱きますよね。

この事実を見たプレイヤーは、ゴースト(=分身=主人公)から肯定を無意識的に剥奪して、自我に同化させてしまう、と言う危険性です。(ヤンデレなんかは当てはまらない様に見えますが、結局の所彼女たちはプレイヤーの分身への異常な愛で狂っているのですから、少なくとも否定してはいません。)

オタクと言われるような、毎日欠かすことなくサブカルチャーに関わる人なら、やがて肯定は膨大な数に増殖し、自らを〝カリスマ〟か何かと錯覚する可能性もあります。かなり突飛な事態ですけど。(あるいは「超人」とでも置けばいいのか。)

そう思うと、らき☆すたが受けた理由が少し覗けた気にもなったり。

あの作品の中にはオタク文化と言う枠組みを否定する人と言うのはほぼ居らず、外国人という外部からの来訪者ですら積極的に肯定し続けてくれましたから。(いや、悪口とかじゃないですよ。なんかそんな文体になってしまいましたが。)

後〝文化〟ってのも何か違いません? 〝文化〟という名前の対象はいないと言うか。様々な社会的財産を享受する上で、外部の人も巻き込むほど広く認知されている享受の〝手続き〟を集めた物という気がします。

見ようによっては虚しいだけ、と言うのは分かりますけど、すごく。またもや雑文を書き散らしてしまったみたいです。もし不快な気分になられてしまいましたら、謝罪します。それでは。

 それは結局、受け手の問題なんじゃないかな。

 決して自分の思い通りにならず、ときには自分の存在を否定し、自分の変革させかねない存在を「他者」と定義するなら、ある作品に他者を見出すかどうかは、畢竟、そのひと次第なんじゃないでしょうか。

 「感情を託す」ということの意味が曖昧ですが、それが自我を投影するということだとすると、だれもが主人公だけに「感情を託」して作品を見ているわけじゃないと思うんですよね。

 過去に何度か書いているけれど、ぼくは物語の主人公に自我を投影しません。アニメを見ていても、エロゲをプレイしていても、主人公と自分を同一視することは、まず、ないと思う。

 たとえば、『ゼロの使い魔』をサイトになったつもりで読むということはない。サイトもルイズもアンリエッタもタバサも、単に一人の登場人物として見ている。

 もちろん、ライトノベルやゲームでは、作品の構造上、主人公の視点でしか物語を読めないことがあります。また、相対的に見て、主人公が作中で自分に一番近い存在であることもあるでしょう。

 でも、ある人物だけを特別に自分に近しい存在として見ることはないんじゃないかな。

 ふつうそうなんじゃないの?と思っていたんだけれど、そうじゃないひともわりといるみたいですね。

 なるほど、そういうひとはオタク文化を消費するプロセスで自己肯定の快楽に酔いしれ、全能感を高めることもあるかもしれません。

 でも、そうじゃないひともいるわけで、オタク文化とはそういうものなのだ、とはいえないんじゃないかと。

 そりゃ、『らき☆すた』では、「オタク文化と言う枠組みを否定する人と言うのはほぼ居らず、外国人という外部からの来訪者ですら積極的に肯定し続けてくれ」たかもしれませんが、それこそ、『ヨイコノミライ!』みたいな作品だってあるわけですから。

 先日のメールの送り主は、ぼくのような人間には『ヨイコノミライ!』のような作品は楽しめないだろう、と思っていたようですが、じっさいには『らき☆すた』も『ヨイコノミライ!』も普通に楽しめるわけです。そういうひともけっこういる。

 あとまあ、構造的に主人公に感情移入できないエロゲもそれなりにあると思います。

 『アトラク=ナクア』辺りには、そもそもプレイヤーが自我を仮託できるような男性主人公が登場しません。

アトラク=ナクア 廉価版

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 400年を生きた美しい女郎蜘蛛と自分を同一視できるひとは、さすがにめったにいないでしょう(全くいないとはいわないけれど)。

 あとまあ、『SWAN SONG』辺りには、そもそも、主人公の「感情を託」して気持ちよくなれるような甘さというものが皆無ですね。

 そういう作品は「少数の例外」に過ぎないかもしれませんが、しかし、そもそも傑作とか名作といわれる作品はすべて、「少数の例外」に過ぎないわけで、ぼくはそういう「少数の例外」を生み出す母胎としての文化が好きなのです。