そのマンガがつまらないのは、作者のせいか?

 夏目房之助の「マンガ学」解説書。

 『マンガ学の挑戦』ではなく『マンガ学への挑戦』であるところがみそで、つまりこれは、未だ確立されざる「マンガ学」をこの世に生み出そうとする、その挑戦の一冊なんですね。

 内容は多岐にわたっているけれど、ここでは、「マンガは誰のものか?」という問題について書いていきたい。

 マンガは誰のものか? 作者のものなのか? それとも読者のものなのか? マンガ批評の根幹にかかわる問題である。

 もし、マンガが100%作者のものだとするなら、そもそも批評の立ち入る余地などない、そういうことになる。その立場に立っているのが、われらが文豪、夏目漱石の意見である。

 夏目(孫)が引用している夏目(祖父)の文章を孫引きしてみよう。

 具眼の批評家というのは、自己の創作が遺憾なく鑑賞出来る人より外にあるべきはずがない。それをもっと露骨な言葉で現わすと、自己が取も直さず自己の製作に対する最良最善の批評家であると云うに過ない。ただ自己は自己に対して不公平に篤く同情し過ぎる懸念があるから、厭々ながら評価の権利を他人に託すのである。

 ようするに、作者の意図以上の「読み」などありえず、作者こそ作品の最上の読者である、しかし作者はどうしても自作に甘くなるから、仕方なく他人に評価をゆずるんだよ、と。

 いいかたを変えるなら、作者が考えたことこそが作品理解の「正解」で、それは所詮他者には理解しえないことなんだと、そういうことになる。ま、現代ではちょっと考えられない意見ですね。

 それに対して、やはり夏目が引用している、われらが王様、岡田斗司夫の意見は正反対といっていい。

 作り手側はこの作品全体に関して100%できるわけじゃないですよね。自分の思ってる事のうちの6割から7割できれば上等だと。だからこの作品を見ても、常に「俺の作品」て思う時には、作品と自分との間にある中間的な事を考えてるはずんだんですよね。で、次に受け取る側はこの紙(手にしている紙=作品、引用者注)の反対側にいて、〔略〕この紙を見てて、で、この紙を見てるんじゃなくて、この紙を見ながら、〔略〕自分の頭にある世界観と照らし合わせて合作してるわけですよね。つまりこの作品と読者の合作が、その作品の感想なり印象なりであると。

 こっちのほうがずっと現代的な意見だといえるでしょうね。

 岡田のような立場に立つなら、どんな傑作も、読者の「読み」があって初めて傑作になるのであって、そのおもしろさなり偉大さなりも100%作者の功績とはいえない、ということになる。

 これはかれの一貫した立場である。その思想は、究極的には、「作品をおもしろくするのは読者であり、したがって作者より読者のほうが偉いのだ」という、漱石の立場とは主客転倒した境地にまで至る。

オタク学入門

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 しかし、そうかといってもちろん、すべてが100%読者の功績に記せられる筈もない。

 優れた作品があって、初めて、読者が深く読み込む余地も生まれる。もし読者の「読み」がすべてであるとするなら、天才の名作も小学生の作文も同じ、ということになってしまう。

 ある作品が生み出す思いとは、作者の創作意図と、読者の「読み」がクラッシュするとき、火花のように生まれるものだといっていいと思う。

 たしかに読者の「読み」は、ときに作者の意図を超越する。作者が80の出来のものを作ったとして、読者は100を読み取るかもしれない。

 しかし、作者が4か5の出来のものしか作れなかったとき、そこから100のものを読み取ることは、不可能ではないとしても、やはり困難だと思う。

 ある作品を読むとき生まれる感想、感動、それは、作者と読者の共同作業によって生み出されるのである。

 ということは、どういうことなのか?

 ある作品が退屈な出来だとすれば、読者にも責任があるということなんですね。

 岡田がいうように、作者は、「自分の思ってる事のうちの6割から7割できれば上等」なのだとすれば、少なくとも3割以上は読者に責任があることになる。

 あるマンガがひどい出来に思えたとしても、それは10割作者の責任ではないかもしれない。ある程度は、読者の「読み」に原因があるかもしれない。

 ただ読むだけならともかく、他人が生み出した作品を評価する人間は、少なくとも、この事実を前に謙虚であるべきである。

 どんな名作も、読者が適切な読み方で読まなければ猫に小判で終わるということ。

 この場合の「適切」とは、もちろん、作者の意図そのままに読むという意味ではない。作品が秘めている可能性を十全に引き出しているという意味である。

 その意味で「読み」は技術であり、資質である。もちろん、この「読み」の可能性は複数存在し、極論するなら、読者の数だけ存在する。

 そして、ある「読み」が「正しく」、別の「読み」が「間違えている」とはいえないだろう。どんなふうに読もうと、そのひとのかって。ただ、より豊かな「読み」というものは存在しえるのではないかと思う。

 ぼくは、ぼくたちは、考えるべきなのだ。自分は自分の「読み」に従い、この作品をこう評価したが、もっと豊かな「読み」が存在するのではないか、と。

 そのマンガがつまらないのは、作者のせいではなく、ぼくの、ぼくたちのせいかもしれないのだから。