俗悪文化が大好き。

江戸に学ぶ粋のこころ

江戸に学ぶ粋のこころ

 おもしろかった〜。

 タイトルからわかる通り、江戸時代の風俗にかんする本です。

 それほどの名著とは思わないけれど、ぼくは何しろこの時代に無知なので(どの時代にも無知なのですが)、とても興味深かった。

 なかでも印象深かったのが、第3章「江戸のカルチャー」。

 大江戸を席巻したさまざまな文化を紹介しているのですが、そのなかに「雑俳」というものがあります。

 俳聖芭蕉のために芸術にまで高められた俳諧に対し、言葉あそびの要素がつよい庶民の文化。そのなかには、上の句だけを決めて下の句を募集するコンクールのようなものもあったといいます(川柳とは違うのかな?)。

 たとえば、「さあことだ(=さぁ、事件だ!)」という上の句に対して、どのように下の句を合わせるか、というコンクール。この場合、その芸術性より、内容のおもしろさが勝負でした。

 で、首位を受賞したのは、こんな句だったとか。

「さあ事だ 床屋の亭主 気が狂い」

 意味がわかるでしょうか? ぼくは解説されて初めてわかりました。

 つまり、かみそりなどの刃物を扱う床屋が発狂してしまった。しかし、床屋へ行かないわけにはいかない。さあ、大変だ!という意味ですね。

 わかってみれば、なるほど、おもしろい。気が狂った床屋が刃物を振りまわし、周りの人間が戦々恐々とする、という、そういう情景が目に浮かびます。

 現代にも通用するような、何かブラックなユーモアセンスがあると思います。いや、ブラックユーモアというより、ここはむしろ、「ギャグ」と呼びたい。

 何しろ、ネタが「発狂」と「凶器」。どう考えても笑えそうにないものを笑ってしまう、そこには何かこう、言いしれない「毒」があると思うのです。

 竹熊健太郎さんは、著書『私とハルマゲドン』のなかで、「ギャグ」ないし「ブラックユーモア」を次のように定義しています。

 しかし「笑い」は必ずしも健康的だったり、建設的だったりするわけではありません。多少なりともマンガに親しんでいる人たちならば、山下たつひこの『がきデカ』と『サザエさん』を同列に論じることは、とてもできないことに気がつくでしょう。『がきデカ』には明らかに『サザエさん』にはない毒のようなものがあります。主人公のこまわり君はなにかというとすぐ全裸になるし、それどころか象に変身したり、母親に近親相姦まがいの行為を迫ったりする。同じ笑いを目的にしたマンガでも、『サザエさん』と『がきデカ』では、それこそ百八十度の違いがあります。

 こういった笑いは、一般のユーモアと区別して「ブラックユーモア」または「エロ・グロ・ナンセンス」と呼ばれます。僕がこれから「ギャグ」というときは、とくに断りのない限り、ブラックユーモア、ないしはエロ・グロ・ナンセンスの意味で使うのだということを覚えておいてください。

私とハルマゲドン (ちくま文庫)

私とハルマゲドン (ちくま文庫)

 ここで竹熊さんがいういう「ギャグ」、「ブラックユーモア」、「エロ・グロ・ナンセンス」が、この、「さあことだ 床屋の亭主 気が狂い」という一句にはあると思うのです。

 もちろん、常識で考えれば、ある床屋が発狂したらほかの床屋へ行けばいいわけですが、そこで、さあ困った、と唸ってみせることが、つまりナンセンス。

 江戸時代の日本には、すでにこういうブラックなギャグが存在した、ということがわかります。調べていってみると、江戸時代の文化には、こういうちょっと洒落にならないような「毒」を孕んだものが少なくないらしい。

 昨日ちょっと取り上げた歌舞伎にしても、あくまで庶民文化の王様であって、あまり堂々と「日本の伝統芸能」なんていえるものではなかったようです。

 で、ぼくはそういう庶民文化の毒々しいセンスが好きなんですね。「大衆文学」なんて堅苦しい四字熟語ではとても語れないような、派手で俗悪でドラマティックで、現実離れしていて、しかしどうかすると夢中になって読みふけってしまうような、そういう代物が好きなのです。

 それってつまり、サブカルってことだろ?という方もいらっしゃるでしょう。

 でも、「メインカルチャー」「サブカルチャー」という区分は、欧米からの輸入品ですよね。

 向こうさんには向こうさんの歴史があって、そういう区分が有効なのでしょう。ただ、その区分は、日本の文化を語るときは、かならずしも有効ではないのではないか、と、最近、ぼくは考えています。

 現代はともかく、江戸から明治あたりの文化をその一言で語ろうとすると、こぼれ落ちるものが多すぎるのではないか。いや、ただの直感ですけど。

 こういった庶民の俗悪なセンスは、江戸幕府崩壊後、国家の近代化とともに古臭いものになりました。

 しかし、消えたように見えて、その後も形を変えてのこっていった。先日取り上げた『日本の異端文学』から、もう一度引用させてもらいます。

 二葉亭四迷の時代から、「文学」などにうつつを抜かすということは「くたばってしまえ!」(二葉亭四迷ペンネームの起源)と親に罵られるようなことだったのだが、近代文学が「正統」あるいは「正当」なものとして、学校教育や文学教材として認証されるようになってからも、世間にはまだいかがわしい「小説」や「読み物」の類、すなわち「文学」という高級でハイカラな名前にふさわしくない、草双紙の流れを汲むような「稗史小説」の類はたくさんあり、それが日本では「異端の文学」というジャンルを形作っていたのである。

日本の異端文学 (集英社新書)

日本の異端文学 (集英社新書)

 ここでいう「異端文学」とは、ようするに江戸の闇、江戸の毒をそのままに引き継いだ文学のことだったのではないか、と、いま、ぼくは思います。

 もちろん、ぼくには知識がないので断言はできないんですけどね。勉強しなくちゃ。しかし、とりあえず、江戸時代に今日でいうような意味での「文学者」がいなかったことは断言できる。

 そもそも、「文学」という言葉のいまのような使い方は、明治時代に作られたもののようです。

日本の文化ナショナリズム (平凡社新書)

日本の文化ナショナリズム (平凡社新書)

 それまでにも「文学」という言葉はありましたが、それは、儒教などの研究を指すものでした。だから、鎌倉や江戸の文学者たちは、決して「文学」をやっている、などという意識はもっていなかったでしょう。

 西洋から「小説は偉いものであるらしい」「近代国家に必要なものであるらしい」という知識が輸入され、そこで初めて、「文学」が誕生し、自然主義やら何やらとうるさく言いはじめるわけです。

 そこから「文学」は権威を得、何か深刻な問題を扱うようになり、日本の近代化に一役を果たした。

 しかし、そんな近代的な社会でも、やっぱり派手で俗悪なものを求めるひとの心は消えやらない。ぼくもやっぱりそういうものがないと生きていけないわけで、きょうも俗悪、いや、俗「良」な作品を捜し求めているのです。

 いくら庶民が高尚で立派な作品を楽しめる時代になっても、やっぱりそれだけではどうにも満足できないんですよね。こう、薄味の上品な料理を食べなれても、どうしても大味なジャンクフードもたべたくなる、そういう心理。

 どうもここらへんにぼくの趣味嗜好の源泉はあるらしい、というメモでした。