ひきこもりがオタクを見下す理由。

ひきこもりの社会学 (SEKAISHISO SEMINAR)

ひきこもりの社会学 (SEKAISHISO SEMINAR)

 タイトル通り、「ひきこもり」と呼ばれる現象を社会学の観点から解析しようとした一冊。発表後、各方面で反響を呼んでいる。

 全般的に非常に興味深い内容だが、ここでは、「ひきこもり」と「オタク」を巡る断面に話を絞って話す。

 いや、これが、ぼく的には目からうろこ落ちまくりの内容だったんですね。簡単にいうと、なぜ、ひきこもり当事者はオタクにならないのか、という話。

 ネットでは、そして世間でも、未だに「オタク」と「ひきこもり」を同一視する傾向がつよい。

 暗い部屋に閉じこもってひたすらアニメやゲームに没頭する、「オタク」の末期的症状、それがひきこもりだ、という理解。

 しかし、これがかならずしも正しくないどころか、時には正反対ですらあることを著者は解説していく。

 まず、かれはひきこもり経験者の声として、「沈没ピアノ」の文章を引用する。

とりあえず、私自身を”ひきこもり”としての立場から発言してみると、”オタクであるひきこもり”は少数という感覚があります。いや、ただアニメ・漫画・ゲーム等が好きだっていう人は結構いるんだけれど、これも一般人にしても多いし、それと大差無い感じ。好きではあっても、それに”オタク”のように変質的にのめり込んで、なおかつ、二次創作・同人活動を行うようなところにまではなかなかたどり着かない。東浩紀が文芸誌の編集者が電撃文庫のことを知らなかったことを嘆いていたけど、こんなの当たり前。俺なんかは「ラブひな」でさえ自分ひとりしか認知していないってことで、浮き上がってしまった経験アリです(笑)

”ひきこもり当事者”っていうのは、なんだかとても細かい意味でのプライドが高くてサブカルチャー一般に対しては、鼻にもかけないか良くて、苦手意識で下手なことを言うよりも避けているような感じがします。それで、哲学・文学・アートなどのメインカルチャー寄りの趣味志向を持っていたりします。端的に言ってしまうと、”ひきこもり”は”オタク”を心の中でバカにしている。

 そして、そのほかにもいくつかの例をあげて、「ひきこもり当事者はオタク的なものを一段下に見て距離を取ろうとする」ことを説明する。

 オタクは社会の評価が低いとい理由で「ひきこもり」は「オタク文化」を一段低いものとして認識する。そのような価値観によって、ひきこもり当事者は社会的権威の高い文学・アート・映画といったものを志向する傾向にあるのだ。このことは「ひきこもり」と「オタク」が必ずしも一致しないという事実以上に興味深い。

 ま、つまり、ひきこもっている最中、映画を見るとしても、『スレイヤーズ!』を見たりしないでゴダールやらトリュフォーを見るということですね。

 そしてここで著者は本田透の名前をあげ、本田のように「オタク」を核にして対抗文化を作り上げていこうとする姿勢がひきこもりには欠けている、と語る。

 「オタク」と「ひきこもり」は重なることもある。しかし「ひきこもり」は自身を意味的に支えるためにはオタク文化は不要であると認識しがちである。「かなり俗っぽい価値観に支えられ」(斎藤環)、社会でより高尚とされるものを消費することによって自身の価値を高め、そのことによって生きる意味を獲得しようとひきこもり当事者はもがくのである。

 ようするに、ひきこもりの当事者にとって重要なのは、実際にはオタク文化でもハイ・カルチャーでもないのである。

 かれらにとって本当に重要なもの、それは、その文化に貼られたレッテルであり、社会がその文化をどう見ているか、という問題である。

 だから、かれらは世間の価値観をそのままなぞって文学や名画を「高尚」とし、オタク文化を「低俗」と看做す。斎藤はその価値観を「かなり俗っぽい」と称しているのだろう。

 先述したように、ひきこもりには、家にひきこもってひたすらゲームやネットに没頭するというイメージが付きまとう。しかし、まさにそうであるからこそ、ひきこもり当事者は、そのイメージをなぞることを拒否する。

 そして、「高尚」な文学や名画、ドストエフスキープルーストキューブリックあたりに耽溺する。ひきこもるまえはオタク趣味をもっていたひとでもそうなる。

 これは非常に興味深い。ここから、ようするに、ひきこもり当事者は社会の常識から逸脱することが出来ないからこそひきこもるのだ、ということがわかる。

 あるものが偉い、また別のあるものが下らない、という社会の価値観に従順だからこそひきこもらざるをえなくなる。いや、むしろ、ひきこもることによって、社会の価値観に抵抗できなくなる、ということか。

 そう考えると、ひきこもりとは、際限のない撤退戦のようなものかもしれない。社会の押し付けがましい価値観に従順に従いつづけ、そしてそのことによって自分を責め苛む果てしないプロセス。

 世間や社会の目なんて無視してしまうような図々しさがあれば良いのだろうが、そういうひとは初めからひきこもらないのだろう。

 かれらのそういう価値観が、斎藤がいうように「俗っぽい」ことはたしかだろう。しかし、考えてもみてほしい。何ヶ月も何年も家にひきこもった状態で、世間の価値観をあざ笑い、自分の価値観を貫くことは相当に大変なことだ。

 そういう状態では、『リリカルなのは』を見るよりも、『2001年宇宙の旅』を見るほうがはるかに楽なのである。言い訳の余地があるからね。

 しかし、はたして、そんな目的で味わう映画や、文学がおもしろいものなのか。ひきこもり体験が苦痛に満ちている理由の一端は、ここらへんにもありそうだ。