SWAN SONGをクリア。
最初はなんであろえがいるのだろうと思っていたのですが、全て終えて、キャラクターの役割について考えいるうちに、ぼんやりと浮かんできました。
あろえは自由である。社会が崩壊した中においても、人は他人に対する欲望や人間関係で縛られているというのに、彼女だけは自分の法則で、自分の世界の中に生きている。
SWAN SONGは、人が生きるのなら絶対に逃れられない力に対し、立ち向かい、敗れ、しかし足掻いた軌跡に価値を見いだす話です。
その戦いに一人だけ関係しなかったあろえは、ある意味で神の子みたいなものだと思います。あるバッドエンド、大智の会を鍬形が殲滅し、あろえを犯した後で、彼は何かを悟ったようでした。あれはあろえという神の子に触れることで、鍬形は鍬形なりの境地に行き着いたということなのではないでしょうか。
そして、話の終わり。キリスト像を完全に修復して、あろえは死んでしまいます。あのシーンを、あろえが生々しいキリスト像に変わって司たち人間の一生を祝福した、と(かなり強引ですが)とることができると思います。
あと、これはほとんどイメージなのですが、あろえは初期の司の最終到達点のような気がします。司はあろえほどではないにしろ、人とズレています。あのまま右手を壊さず、柚香とも出会わないでいれば、彼はあろえのようになっていたのではないか、と思うのです。だからこそ父を、人々を虐げる“何か”が見えなかったのではないのでしょうか。
キャラクターの役割、というか、ポジションについて。ここら辺は煮込み足りず微妙なので、忘れてもらってもかまいません。
雲雀は「理想を持ち続ける者」。過程とか、方法は分からなくても、「こうなったらいいのに」という希望を最後までなくさない。
田能村は「理想の限界を知る者」。雲雀と違い、現実をシビアに見つめ、方法と過程を考える。しかし、理想が高じて選択を迷う。
鍬形は「正解を探す者」。かくあるべし、という唯一絶対の法を求め、それに従う。初期は世間一般の倫理に基づいていたが、殺人を境に今の世界に適したルールを作り、それを遵守するようになった。虐げる“何か”、彼の場合は現実と理想とのギャップから逃れたが、また新たな“何か”に捕らえられる。
柚香は「諦めた者」。“何か”との戦いから降り、静かに滅びの時を待つ。ささやかな自由を手に入れたが、同時に幸福もない。(不幸でないということが幸福ということではない)
司は「戦い続ける者」。田能村や鍬形とは違い、理想のために“何か”と戦うのではなく、“何か”と戦うために戦っている。負けん気だけで動いている? 多分、ずっと手のトレーニングとピアノを続けられたのは、結果ではなく過程に価値を見いだしていたから。ラスト、目指していた場所にたどり着いたが、それを表すモノ(ピアノ)の不在によって、柚香の心を救うことなく死亡。
二週目のハッピーエンドがもの凄い手抜きだったことから、瀬戸口は限界点を前提に置いた物語を描こうとしていたのだと分かる。彼の伝えようとするモノに、安っぽい全能感が入り込む余地はない。(神様の不在。無価値を前提とした価値の創造。ニヒリズム)
おお、『SWAN SONG』の感想が。
ぼくとしては、神の不在というよりも、神は悪意に満ちている、と考えたほうが良い気がします。司は最後までその絶対者と戦いつづけて、敗れ去って死んでいく。でも、その敗北は何よりも高貴。
日常生活で常に敗北し続けている身としては、かれの誇り高い敗北は、非常に勇気付けられるものがあります。とてもあんなふうには生きられない、ということでもありますが。
ま、「しょせん、エロゲはエロゲ」と思っているひとは、いっぺんこのゲームをやってみると良いんですよ。それでもなお、意見が変わらないようなら、ぼくにはもう何もいうことはないですね。
『らくえん』と並んで、ぼくのなかではエロゲ最高傑作なんだけれど、『らくえん』よりはるかに「一般人」に通じやすいと思う。この作品が入手困難であることは惜しすぎますね。