ぬるい展開とは何か?


 「アセティック・シルバー」の『魔法先生ネギま!』の記事から。

 それにしても、「ぶっ殺せ系」の人って何を求めて「ぶっ殺せ!」と叫ぶんでしょうか。

 ぼくは「物語のダイナミズムの触れ幅が大きければ、それでOK」なひとで、ダイナミズムを生み出す手段として「登場人物の死」があるのは構いませんよというスタンス。物語においての「死」とは、もっとも大きなエネルギーを生み出す手段(のひとつ)だとぼくは思っています。使いかた一つという所でしょうか。ただし物語における「死」は、果たす役割がその時々によって変化するものだと思っています。

 この「物語のダイナミズムのふり幅」という概念はおもしろいですね。

 はしさんの言いたいことは、まあ、わかる。先日読み上げたカート・ヴォネガットの『国のない男』に似たようなことが書かれていた。

国のない男

国のない男

 『シンデレラ』あたりを例にして考えるとわかりやすい。初め、可哀想なシンデレラはとても不幸な状態にある。

 お母さんはすでに亡くなっているし、あとからやってきた継母は意地悪、お父さんはどうもシンデレラに興味がないみたい。

 しかし、そこにとんでもないラッキーチャンス! 親切な魔法使いのお婆さんのおかげで、一躍王子さまと結婚にこぎつけ、ハッピーエンド。非常にふり幅の大きい展開ですね。

 数字にたとえるなら、マイナス100からプラス100くらいまで一気にアップした感じ。もちろん、現実にはこんなことはめったにない。あくまでお伽噺に過ぎない。

 しかし、こういう物語はいつでも大衆の心を惹きつける。ほら、『ハリー・ポッター』だって同じ展開でしょ。

ハリー・ポッターと賢者の石 (1)

ハリー・ポッターと賢者の石 (1)

 しかし、ただ不幸なひとが幸福になるだけじゃ、いくらなんでも大人を惹きつけることは出来ない。都合がいいだけの幸せなお話にはすぐ飽きてしまう。

 そこで、その逆、つまりプラス100からマイナス100に突き落とされるタイプの展開が要求される。よく出来た物語は、この「マイナス→プラス」展開と「プラス→マイナス」展開を組み合わせて出来ている。

 アレクサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』を見てみよう。発表から数百年後のいまですら人気が衰えない大衆娯楽小説の最高傑作だ。

モンテ・クリスト伯〈1〉 (岩波文庫)

モンテ・クリスト伯〈1〉 (岩波文庫)

 この作品の主人公、エドモン・ダンテスは、初め、結婚を控え、とても幸福な状態にある。プラス100、とまでは行かないまでも、ま、80くらい。

 そこで陰謀に嵌められ、無実の罪で監獄行き。そのまま十数年も閉じ込められてしまう。一気にマイナス100。

 しかし、同じく牢獄に閉じ込められた老人の協力を得て、遂に脱獄に成功、ナポレオンの財宝を手に入れ、大富豪「モンテ・クリスト伯爵」を名乗る。プラス100。しかし、かれの心にはいまも復讐の冷たい炎が燃えさかっている……。

 これこそふり幅の大きい物語というもの。おもしろい物語は、大抵こういう構造になっている。明から暗へ、幸から不幸へ、天国から地獄へ、一気にかけ下りかけ上るスリル。

 それが「ふり幅の大きい」物語というものだと思う。

 『ネギま!』に話を戻す。ここで「ぶっ殺せ派」(って、誰だろう? そんなひとがいるんですね。怖いですね)のひとがいいたいのは、「物語のふり幅が小さすぎる」ということだろう。

魔法先生ネギま!(1) (講談社コミックス)

魔法先生ネギま!(1) (講談社コミックス)

 『ネギま!』の場合、プラスに比べて、マイナスのふり幅が小さすぎる。たとえば登場人物の死というような、衝撃的な事件は起こらない。そこに『ネギま!』の限界がある、と。

 ま、ようするに、ぬるい、ということですね。ぬるすぎる、と。一理ある意見だとは思う。そりゃ、『ネギま!』はぬるいですよ。そういう漫画だもん。

 たとえば、『Fate/stay night』あたりはもっとふり幅が大きい。プラスからマイナスへ、マイナスからプラスへ、急速に移行していく、その速度が『Fate』の魅力。

フェイト/ステイナイト[レアルタ・ヌア] extra edition

フェイト/ステイナイト[レアルタ・ヌア] extra edition

 ただ、かならずしもそういう展開が読者に好まれるとは限らない。もっと安定した、ふり幅が小さい展開を好む読者層もいるわけで、たぶん、赤松さんはそういう読者にも配慮しながら描いている。

 『ネギま!』はたしかにぬるいけれど、それをいうなら『涼宮ハルヒの憂鬱』とか、『らき☆すた』なんて、もっとはるかにぬるいですよね。

らき☆すた (1) (単行本コミックス)

らき☆すた (1) (単行本コミックス)

 『らき☆すた』がよく、「何がおもしろいかわからない」といわれるのは、「ふり幅が小さすぎて物語の体裁を成していない」という意味だと思う。

 でも、それはそれで、ある種の快感はあるわけです。一概に否定できるものじゃない。

 だから、このふり幅が大きい作品が良いのか? それとも小さい作品が良いのか? その問題はなかなか一言ではいいきれないものがある。

 また、これはあくまで「物語」の評価基準であって、リアリズムとディテールで勝負するタイプの作品をこういう尺度で測ることは出来ない。

 ただ、ひとついえることは、『ネギま!』の場合、明らかに、すでにふり幅が比較的小さいところから一歩踏み出してしまったということ。

 ネギたちはすでに学園という楽園を飛び出てしまったわけで、いままでと同じように平穏な日常を生きることは出来ないはず。

 これは、ハルヒたちがあくまで学園に留まっていることと対照的ですね(近刊は読んでいないからどういう展開になっているかわからないけれど)。

 そういうわけで、「ぶっ殺せ!」という声が出てくることも、ひとつの必然ではあると思う。

 死ぬならやっぱりエヴァさまですよね。ようやく再会したナギ(もしくはナギの姿をしたネギ)に抱きしめられて死んでいく、とか。ベタな(笑)。

 そういう展開になったらちょっとおもしろいけれど、ならないでしょう。きっと。