美少女という名の神、多神教の時代。

 エロゲについての熱い語りを目にするたびに思うんですが、エロゲから「男性向け」「美少女」という枠を外せないかぎり、むなしい熱なんじゃないでしょうか。

 美少女という神がいないと成り立たない世界は、その神を信じない人間には、歪んだものにうつるのでは?

 これはやおいも同じことで、「男二人」という神を信じるかどうかで、まるで違うものになってしまう。エロゲもやおいも好きなのですが、限界も感じてしまいます。

 すっかり遅くなってしまいましたが、お返事します。

 結論からいうと、ぼくは特にむなしいとも思いません。

 たしかに、ぼくがいくら「これはおもしろいよ!」と叫んだところで、すぐに認められるものでもないでしょう。

 でも、現実に優れているものは優れているし、おもしろいものはおもしろい。たとえだれ一人認めてくれないとしても、ぼくがそう感じることはやめられない。

 ぼくは別にエロゲが全部優れているとは思いません。大半は下らない。ポルノとして見てもそう質の高いものじゃない。

 でも、そのなかにはたしかに、ぼくですら凄いと認めざるを得ないものがあって、そういうものは素直に認めたいと思うのです。

 そういう態度を「痛い」と思うひともいるでしょう。たかがエロゲじゃないか、そんなものに夢中になるなよ、と。「Fateは文学(笑)」なんて揶揄はその典型ですね。いかにもオタクらしいシニシズム

 しかし、それをいうなら、SFだってミステリだってホラーだって、その昔は低俗なサブカルチャーとして見下されていた。ぼくはSFを見下さないように、エロゲも見下さない。それだけのことです。

 もちろん、だからといって、ぼくが優れていると思うものが、誰にでも通用すると思っているわけではありません。

 ある「神」を奉じる者たちは、はたから見ればとてつもなく奇妙に見えるかもしれません。というか、ぼくにもそう見える。

 萌えだのエロだの、変だし、奇妙だし、歪んでいる。正常じゃない。そう見える。しかし、それをいうなら、「正常な」「歪んでいない」文化とは何でしょうか?

 文学? メインカルチャー? それはいったいどれだけの人に届いているのでしょうか?

 ケータイ小説のベストセラーはたしかに下らないかもしれないけれど、しかし、現実に、多くの人に届いている。やおいにしても、ライトノベルにしてもそう。

 その一点だけを見ても、決して無視してはならないとぼくは思う。それらすべては複雑に倒錯した現代社会の一断面なのだから。

 そもそも、いまの世の中に、だれもが崇めたてまつる「神」が存在するでしょうか? 

 『少年ジャンプ』の部数が低下し、紅白歌合戦の視聴率も下がりつづける今日、この価値観が多様化した時代に、だれもが認めるような「神」はありえないと思うのです。

 もう、どのようなヒット作も、全世代的に影響を及ぼすことは出来なくなりつつある。現代とは、ひとつの社会で何柱もの「神」が崇められる、いわば多神教の時代なのではないでしょうか。

 それぞれの「神」、それぞれの価値観ははたから見れば奇妙に見えるけれど、しかし、それでも共存していかなくはいけない。現代はそういう時代だと思うのです。

 その社会にあって、ぼくたちがなすべきこと、それはまがい物の「正常」や「健全」に逃げ込むのではなく、違和感を違和感のまま保ち、しかも違和をもたらす他者を拒絶しないこと。そうではないでしょうか?

 作家の瀬名秀明らが著した『境界知のダイナミズム』では、そのような違和感を感じさせる境界線上における「知」のあり方を「境界知」と名づけています。

境界知のダイナミズム (フォーラム共通知をひらく)

境界知のダイナミズム (フォーラム共通知をひらく)

 瀬名は、結合双生児の例を挙げて境界知について説明しています。

 アリス・ドムラット・ドレガーの『私たちの仲間 −結合双生児と多様な身体の未来−』によると、ほとんどのの結合双生児は分離手術を望んでいない。

私たちの仲間―結合双生児と多様な身体の未来

私たちの仲間―結合双生児と多様な身体の未来

 しかし、ぼくたちの社会では、分離手術こそが医学的正解であると看做される。なぜか? それは、ぼくたちが自分の身体こそ「正常」であるという「常識」をもっているからではないか?

 結合双生児はそういう「常識」が通用しない「他者」です。つまり、かれらは、身体とはひとりにつきひとつのものだという「神」を崇めない「異教徒」なのです。

 ここには、複数の「常識」が衝突する「境界」がある。つまり、「境界」とは、自分がもっている常識とは異なる常識、「神」をいただく「他者」と出逢うことによって、自分の常識が揺り動かされるその現場なのです。

 ぼくたちがエロゲとか、やおいとか、ケータイ小説とか、そういう「歪んだ」文化に出逢ったときに感じる違和感もまた、規模は違うにしろ、やはり「境界」に出逢った証だといっていいでしょう。

 何かおかしい、異常だ、理解できない、そういうふうに感じさせるものがそこにある。その事実を認めた上で、しかし、自分の常識に逃げ込むのではなく、はたして自分の常識はどこまで通用するものなのか? そう考えてみる。

 そのような「境界知」がぼくたちには要求されている。だからこそ、ぼくは、いろいろな、たがいに傾向の違う作品をひとつのweblogで扱っているのです。ぼくらの内なる「常識」を揺り動かすために。