タイトル通り、エロゲの文章をそのまま小説と比較しても無意味だよね、という話。
この場合のエロゲとは、いわゆるノベルゲーム(画面全体に文章が表示されるゲーム)を含むアドベンチャーゲーム一般を指す。
ネットには、エロゲの文章部分を抜き出し、良いの悪いの上手いの下手だのと語るひとが少なくない。しかし、ぼくなどはそれ全部まとめて無意味じゃね、と思ってしまう。
あたりまえのことだけれど、エロゲは小説ではない。だから、小説を評価する基準で評価することは出来ない。
もちろん、エロゲの文章にも、エロゲの文章なりの巧拙はあるだろう。しかし、その基準は小説の基準と同一ではあり得ない。
エロゲの文章は、あくまでも映像や音楽、またゲーム要素によって補完されることを前提としたものだからである。漫画から台詞だけを抜き出して巧拙を語ることが無意味であるように、エロゲから文章だけを抜き出して良し悪しを問うことも無意味だ。
エロゲの文章は、あくまで、その作品のなかでほかの要素と合わさったときどのような効果をあげているか、その一点で評価されなければならない。
もし、「絵や音楽がなくても意味が通じる文章」だけが良い文章だと考えられているのなら、それはやはり、文学コンプレックスでしかないと思う。
もちろん、小説の文章は、少数の例外はあるにしても、それ単体で完結することを目指す。挿絵で補完されなければ意味が通じないような文章は、「小説では」良い文章とはいえない。
しかしそれは、あくまで小説の世界の話であり、エロゲには関係がない。
ぼくが偏愛する『CARNIVAL』および『SWAN SONG』で文章部分を務めたとされる瀬戸口廉也は、たぶんあらゆるエロゲライターのなかでも、最も小説に近い書き方をするひとだろう。
『CARNIVAL』の画面を見てみるとよくわかる。
瀬戸口さんの文章は、小説的な意味で、非常に完成度が高い。たぶん、いくらか修正を加えれば、そのまま小説として通用してしまうだろう。
しかし、こういう文章こそが、エロゲにとって唯一の正しい文章なのかといえば、そうでもないと思うんだよね。
『CARNIVAL』や『SWAN SONG』の文章は、あまりにもそれ単体で完結しすぎている。絵や音楽を必要としないような文体なのである。
こういう文章は、ADVの文章表現のひとつの極北ではあるだろう。しかし、唯一の正解とはいいがたい。
もうひとつ、これもぼくが偏愛する『らくえん』の文章を取り上げてみよう。
一見して、『CARNIVAL』との違いがわかる。
もちろん、それはゲームシステムの差でもあるけれど、同時に、文章思想の差でもある。
『らくえん』の文章は、文章だけで完結することを目指していない。あくまで映像があり、そして音声があって初めて完結する文章なのである。
逆にいえば、瀬戸口廉也のような才能は、こうしたシステムでは発揮しきれないかもしれない。文章がシステムを要求するのか、システムが文章を規定するのか、たぶん、その両方だろう。
『らくえん』では、台詞をあっさりと「〜(略)」と表現してしまい、文章上で台詞が終わったあとも音声ではしゃべり続けるという演出が用いられている。
このような演出は、もちろん、小説では不可能なものであり、エロゲと小説の文章を同列において優劣を争っても意味がないことが改めてわかる。
ひょっとしたら、こういう作品の文章は、小説よりむしろ戯曲のそれに近いかもしれない。
エロゲは文学にはなり得ないが、別に文学より劣るわけではない。単に異なるジャンルの表現であるに過ぎない。
や、ぼくは本気でそう思っていますよ。
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お怒りのメールが来たので、付記しておく。
戯曲よりもシナリオと言うべき。もっと戯曲を研鑚してから文章を書きましょう。シェークスピアでも論じてみろ。アホ。
そんなところに噛みつかれてもなあ。ゲームのシナリオだって映画のシナリオだってシナリオなんだから、この場合、ただシナリオとだけ書いてもわかりづらいと思いますが。