筆者もまた、ケータイ小説を馬鹿にするエリート意識を持った頭の固いオタクを 見下して、自分はそういったものに流されないというスノビズムを持っているのが透けて見える文章。
ケータイ小説を馬鹿にするエリート意識を持った頭の固いオタクを見下して、自分はそういったものに流されないというスノビズムを持っている筆者を見下して、自分はそういったものに流されないというスノビズムを持っているのが透けて見え(以下略)、こういう話は無限循環するだけだと思うのですが、いかが。
http://www.bitway.ne.jp/bunshun/ronten/sample/onti/071129/main_02.html
>文学というのは、安易にこの「安心」を与えてくれない種類のものだ。大人未満、子供以上の女子高生たちが、自分たちで物語をつむぎ始めたのは、同じ時代性を感じさせつつ「めでたし、めでたし」を与えてくれる物語というのを、強く希求していたせいではないかと思うのだ。
この推測は説得力あると思いました。
ケータイ小説のなかには身も蓋もない悲劇に終わるものもあるわけで、「めでたし、めでたし」といえるのかわかりませんが、ある種ご都合主義的な結末が要請されているということはいえるかもしれません。
ただ、それは、ひとつケータイ小説に限らず、大衆娯楽小説は皆そうじゃないかな、という気も。推理小説でしょっちゅうカフカ的な結末が待っているようでは、これは神経に応える。
ご都合主義そのものが悪ではないと思うんですけどね。
ご都合主義が悪だなんて、誰が言ったの
ぼくじゃないことはたしか。ひょっとして、あなた?