本題に入るまえに、一篇の詩について話しておきたい。北村薫の『詩歌の待ち伏せ』に掲載されていた詩である。
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わずか3行。
れ
ママ
ここに
カンガルーがいるよ
詩といっても、まだ字を知らない3歳の子供が口にした言葉を親が書きとめたものである。北村は、この「詩」を、雑誌『VOW』で目にしたらしい。
ご存知の方も多いと思う。投稿者が身の回りで見つけた奇妙なものを掲載している本だ。その本の、「詩人の血」と題するコーナーに、この詩は掲載されていた。
もともとは、読売新聞に掲載されたものらしい。それを「奇妙なもの」を捉えた投稿者により、『VOW』に送られて来たわけである。
北村によると、投稿者の言葉は、「オーストラリアにでも住んでいらっしゃるのでしょうか?」。そして、採用した編集者のコメントは、「タ、タイトルが「れ」。凄いな。れ。しかもただの子供のたわごとだしなあ。れ。」だった。
ここには、「ママ、ここにカンガルーがいるよ」といった子供と、その言葉を受け止めた親、そしてその親子のやり取りを「詩」として評価する評者を、まとめて一段階下のものと決めつけ、嘲笑する視線がある。
カンガルーを見た子供が「れっ?」と驚いた、ただそれだけの「子供のたわごと」の、どこが詩なのか、と。
北村は、そこまで説明した上で、「何をいっているのだろうと思いました」と書く。
いうまでもありません。この《カンガルー》は本物ではない。ここに並ぶ言葉を見て、素直に思い浮かぶのは、どういう情景でしょう。
《れ》に関してなら、わたしは、ひらがなを書いた四角い幼児用の札を思い浮かべました。それを使って、お母さんと文字遊びをしている場面です。勿論、絵本を見ているのでもいい。ひらがなの《れ》の字を見た坊やが、小さな指でそれを指し、いったに違いない。
「ママ、ここにカンガルーがいるよ」
――前にちょこんと突き出された手、膨らんだお腹の袋、右に長く伸びた尻尾。まさに《れ》という形は《カンガルー》そのものです。
そして、「理屈は必要ない。見た瞬間に、こう思えてしまう。詩句をどう受け取るかは自由です。しかし、この場合に限るなら、別の解釈は無理でしょう。」と、続ける。
子供が気づいたそのことを、もちろん、親も気づいた。読売新聞の評者も気づいた。北村薫も、気づいた。ただ、この詩を『VOW』に送った投稿者と、その投稿を受け取った編集者だけが気づかなかった。
なぜか? たぶん、先入観と、固定観念の問題なのだと思う。
まだ読み方を知らない子供にとって、文字は、特定の意味をそなえたものではない。線であり、形である。
だからこそ、「れ」の形が、カンガルーに似ていることに気づく。文字を文字としてしか見ることが出来ない大人には出てこない発想だろう。
それでも、子供の言葉に素直に耳を傾ける心があるなら、その子が言っていることがわかる。しかし、「たかが子供の言葉」と侮っていると、わかるはずのことがわからなくなる。
そして、わからないままにひとを見下し、嘲弄することになる。しかし、その笑声のなかで貧しさをさらけ出しているのは、笑われているほうではなく、笑っているほうなのである。
北村は、最近、テレビでも「誰かを嘲笑う芸」が増えていることを記し、「確かに面白い」と認めた上で、こう語る。
怖いのは、笑ってしまうと、そこで人が繋がらなくなってしまうことです。ミスをした選手の姿を見て、滑稽だと腹を抱えた時、同時に彼の胸中を思うひとはまれでしょう。
嘲笑とは見下すことであり、それ故に自己防御の快感があります。しかし、同時に他を拒絶することにもなる。高みに立って、笑ってやろうと身構えてしまえば、人の心は見えなくなります。
そう思う。
以上のことを踏まえた上で、本題に入る。
読んだことが無いので知らないが,『恋空』という作品は相当わけの解らない作品なのだろう.それはそうだろう.何も考えずに「感動した!」,「超泣けた!」といった感想しか述べられないような動物化した女子高生やらにウケているのだから.
あーいったモノは作品だとか物語といったモノではなく商品であり,マーケティングとして成功したかどうか?や商業的に成功したかどうかが問われるものであり,後に「あんな無茶苦茶な文章は小説ではない」とか「あんなモノは物語ではない」といった風に正しく評価が行われるようなモノではないからだ.
そして,それは同時に我々が楽しむオタク的作品にも言えることだと私は思う.
何も考えずに「超面白いよ」,「泣けるから」と勧めてきて,どの辺りが面白いのかとツッコムとあらすじを延々と教えてくれたり,何でもかんでも「神」と称してみたり……
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こういう文章を読むと、ぼくは、思う。せめて読んでから語るべきではないか、と。
もちろん、『恋空』は下らない話なのかもしれない。ばかばかしい小説まがいに過ぎないかもしれない。じっさい、いままで読んでみたケータイ小説はどれもひどいものだった。
しかし、だからといって、読者(というか「非」読者)の側の傲慢が正当化されるわけではない。『恋空』がどれほど駄作であろうと、読みもしないで「作品だとか物語といったモノではなく商品」だ、と決め付けるような態度は不当としかいいようがない。
とはいえ、もちろん、こういった論調は、とくに目新しいものではない。SFも、ミステリも、ホラーも、ライトノベルも、その勃興期には、こうした批評ともいえないような言説に苦しめられてきた。
上記記事によると、この傲慢さは、かれ個人のものではなく、ある集団に共有されているものなのだという。
我々はある種のエリート意識みたいなものを持っている.
「世間で流行っているドラマとか小説なんて…」とか「J-POPとか聞けたものじゃないよ」とか「ブランドとか流行のファッションなんてインチキじゃないか」とか…そういった一般人に対する侮蔑みたいなものを少なからず持っているものである.
我々? だれのことだろう? 文脈からして、「オタク」といわれるひとのことであるとはわかる。しかし、少なくとも、ぼくのことではない。
ぼくが読んできた作品には、商業的に成功したものも、そうでないものもある。100万部売れたものも、その100分の1も売れなかったものもある。
しかし、そんなことを基準にして作品を判定したりはしない。有名作品でも無名作品でも、優れているものは優れているし、下らないものは下らない。ただそれだけのことだ。
「我々」なんてものが、本当に存在するのだろうか? 「一般人に対する侮蔑みたいなもの」をもっているのは個人だろう。かってに他人を巻き込まないでほしい。
そもそも、ケータイ小説は下らないの、ライトノベルはばからしいの、そういう議論そのものが無意味だ。それはある作品ひとつを取り出して文化全体を代表させるような粗雑な議論に過ぎない。
『恋空』がどんなに下らないとしても、すべてのケータイ小説が下らないことにはならない。ひょっとしたら、どこかに傑作がねむっていないとは限らない。
そして、もし、現代のケータイ小説がことごとく駄作ばかりだとしても、将来はわからない。
1920年代のスペースオペラを見て、このジャンルが、やがてレムやディレイニーやル・グィンやティプトリーを生み出すことを想像出来たものがいるだろうか?
何より、個々の作品がどんなに稚拙だとしても、それは、いままで読書に親しんでいなかった層に届いているという事実は無視できないものがある。
小説とは、ただ少数の同じ価値観のもち主の間だけで回覧されていれば良いものなのだろうか? ぼくはそうは思わない。読書の庭の扉は、常に、新しい訪問者へ向けて開かれているべきである。
ぼくは文学であろうが、ライトノベルだろうが、ケータイ小説であろうが、自分が読みたいと思ったものを読み、自分が評価に値すると思ったものを評価する。
なぜなら、ひとを見下したりひとに自慢するためではなく、自分の人生を豊かにするために読んでいるからだ。
ケータイ小説だろうが、ただのライトノベルだろうがアダルトビデオだろうが、良いものは良い。逆に、主流文学や芸術作品だって、下らないものは下らない。そう思う。
たしかに、他人がばかにしているものをばかにし、偉いとされているものを偉いといっていれば安全だろう。
自分はケータイ小説が下らないとわかっている、ライトノベルがキモいと知っている、そういう態度を取っていれば安心だ。自分は賢いと思っていられる。
しかし、その態度は、「カンガルーがいるよ」と発見した子供を笑った編集者と何も変わらない。ぼくは笑った編集者であるよりは、笑われた子供でありたいと思う。
「れ」の字をただの字と思わず、そこにカンガルーを発見する子供でありたい。
ひとと同じ視線で物事を語ることなく、ただ一人、高みに立ったつもりで他人を見下していれば、自分のプライドは守られるだろう。だが、自分のちっぽけなプライドを守るために本を読んでいるわけではない。
ぼくが『らくえん』を好きなのは、ここなんだよね。あの作品もシニシズムから出発するんだけれど、最終的に、シニシズムを乗り越えて行ってしまう。素晴らしい。ええ、たかが低予算のエロゲですけどね。
だれもがドストエフスキーはすごいという。『カラマーゾフ』は傑作だという。しかし、それなら、なぜ、アリョーシャのあの優しさを学ぼうとしないのか?
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小説を、文学を読むこととは、ただ文字に目を通すことではない。「れ」の字のなかにカンガルーを見出すことである。常識に囚われない自由な心をもち、常に新鮮に世界を再発見しつづけること。
他人を見下し、優越感に浸ることではない。