『魔法先生ネギま!』のリーダー論。


 今回は『ネギま!』を読んでいないひとにはわからないかもしれない話です。

魔法先生ネギま!(1) (講談社コミックス)

魔法先生ネギま!(1) (講談社コミックス)

 行くぜ。

 ネギま! が好きな人は不快になると思う記事です。読んでも構いませんが責任はとらないことにしているので罵倒などは歓迎いたしますが、リアクションはとりかねます。

 さて、イズミノさんに星をいただいたので赤松論やネギま! 関連記事を再読しました。結果ネギま! を好きになる日は来ないだろうから、次の作品を早く書かないかな、という悲しい結論がでました。

 というのもユエやノドカを殺せないでしょ? ということからです。もしユエやノドカを殺したら、ネギま! を好きになりますが、その可能性は無いに等しいわけで。

 だからユエやノドカ、自らの決意でネギについていくと決めた人たちであり、ネギが非日常に巻き込んだ人たちであり、かつ力の無い人間=守らなければいけない責任が発生した人たちが死なないと僕は好きになれない。ネギが彼女らのためにすべきだった選択とは、完全に非日常から遠ざけることです。それをしなかった、人間的な葛藤を回避したネギには責任が発生しているわけです。

 けど自分たちで決意したんだから自己責任じゃね? と思う方もいるかもしれません。名目上はまさにその通りなんです。そしてネギはその名目に目を逸らしているように僕は思えます。そう、目を逸らしたからこそ、非情な現実を突きつけられ、それを乗り越えないと僕の心に響きません。

 なるほど。

 ぼくとは全く逆の意見ですね。おもしろい。

 ぼくは、ネギはむしろ過剰に責任を感じていると思う。ネギが自分の責任から目を逸らしているとは、具体的にどの描写のことでしょうか?

 ぼくには、ネギは一貫して深い自責に駆られて悩み苦しんでいるようにしか見えないのですが。

 夕映やのどかたちが生命の危険に晒されているかもしれないこともわかっているでしょう。だからこそ、一刻も早く彼女たちを救い出さなければ、と焦っている。

 いまのネギが責任から目を逸らしているのだとすれば、目を逸らしていない行動とはどのようなものでしょう?

 もちろん、だからネギは偉い、とは思いません。はっきりいうなら、その自責そのものが不当だし、もっというなら傲慢だと思う。ぼく個人がそう思っているというだけじゃなく、作中でもはっきりとそういうふうに描写されている。

 sさんは「ネギが彼女らのためにすべきだった選択とは、完全に非日常から遠ざけることです」とあるけれど、ぼくはそうは思いません。

 第一に不可能だし、第二に、もし可能であったとしても、彼女たちの自由意志の侵害にあたるからです。ペトロニウスさんが書いていることを引用してみましょう。

でも、僕はよく思うのですが・・・確かにリーダーや公的に責任がある立場の人には、絶大な責任があります。だってマクロを管理する立場にあるわけだから。でも、すべてを管理できるわけではない以上、やはり、どこかで線を引いて、「何をなすにも、それはフォロワーの決断」と考えなければ、それは、相手を対等に見ていないことんなってしまうのではないかな?って思うのです。たくさんの情報を持つネギだって、リーダーだって、すべてを見とせるわけではないのですから。結局は、「どうなるかわからない不確かな未来に足を踏み出している」同じ人間にすぎません。

 ぼくもそう思います。

 今回、フェイトたちが空港を襲撃することは、ネギにとって想定外の事件でした。かれがもっている情報をどう分析しても事前に襲撃を予測することは不可能だった。

 そして、この突発的な事件さえなければ、魔法世界への旅はごく安全に終わるはずだったのです。

 もちろん、それでもなお、予想できなかったことそのものがネギのミスだ、ということは出来るでしょう。そして、たぶん、ネギ自身、そう思って自分を責めている。

 しかし、どんな偉大なリーダーでも、あらゆる可能性を予測し切ることは不可能です。もし、ネギが今回のテロルを事前に予測できたとすれば、それこそチープなご都合主義としかいいようがない。

 だから、ネギの感じている罪悪感は不当としかいいようがない。そもそも、仮にのどかたちを学園に置いてきたとしても、そこが安全だとは限らないですよね。

 だって、過去にもその学園で、エヴァが血を吸ってまわったり、ドラゴンが迷宮で暴れたり、恐竜ロボットが暴走したり(笑)しているわけですから。

 完全に「非日常」的な事件から切り離された安全な「日常」というものは、この世には存在しない。魔法世界で予想外のトラブルが起こったように、学園でもトラブルが起こったかもしれない。

 人間の認識力に限界がある以上、そういう偶発的なトラブルは避け切れないものであり、リーダーの責任とは、むしろその起こってしまったトラブルに臨機応変に対応していくことだと思います。

 起こってしまったことを起こすべきではなかったと悔やんでも無意味。ネギは予想できるはずもないことを予想できなかったといって悩んでいるのです。小太郎がネギに腹を立てたのはそのせいです。

 そしてまた、仮に、絶対に安全な場所がどこかに存在したとしても、そこへのどかや夕映を閉じこめておくことが、本当に彼女たちのためでしょうか?

 明日菜も夕映ものどかも、自分の意思でネギについて来たのであって、もしネギがその意思を否定するとしたら、それは彼女たちの人格を否定することになると思う。

 なるほど、彼女たちはそのために思いがけないトラブルに巻き込まれることになった。

 しかし、それは彼女たちが選択した行動に必然的に伴うリスクであり、もしネギがあらかじめそういう危険を予想し、その行動を抑止するとしたら、夕映たちはほとんど何も出来なくなってしまうのではないでしょうか?

 究極的には、外へ出ると車に轢かれるかもしれないから家のなかにこもっていなさい、ということになりかねない。

 このように「相手のためを思って」その行動を抑止すること、英語で、パターナリズム(paternalism)と呼びます。日本語では父権主義、温情主義、あるいは父権的温情主義などと訳されているようです。

 パターナリズムの問題点は、相手のためを思ってしたことがかならずしも本当は相手のためにならないところにあります。本人はリスクを犯してでも為し遂げたいと考えていても、あらかじめ先回りしてその可能性を摘み取ってしまったりする。

 それは「相手のため」という理屈で正当化されるけれど、でも、人間の人生は最終的には本人のものなのであって、本来、だれもそのひとの代わりに決断を下す権利などないはずなのです。

 仮に、ネギ自身が、エヴァやタカミチあたりから「父親を捜すことは危険だからやめたほうがいい」といわれていたら、かれは納得したでしょうか?

 もちろん、しないでしょう。その忠告に逆らってでもナギを捜しつづけようとしたに違いありません。

 なぜなら、それこそがかれの魂に刻みこまれた最も根源的なモチベーションだから。そこを折ってしまったら生きる意味そのものがなくなってしまう。

 そして、仮にかれはそうやって危険を犯した結果として非命に斃れることになったとしても、ほかの誰かを恨もうとはしないでしょう。

 だとすれば、なぜ夕映たちのことをすべて自分の責任のように思い込むのでしょうか? それは、のどかたちをあくまで「生徒」、ただひたすらに保護すべき対象と捉え、対等の自由意志をもつ主体とは見ていないことに他なりません。

 しかし、それは一面では彼女たちに対する侮辱にあたる。だからこそ、明日菜や小太郎はネギに対し、苛立ちをかくせない。かれを愛し、かれのために何かしてあげたいと思う人間にとって、そういう態度ほど苛立たしいものはないのです。

 これ、『おおきく振りかぶって』で花井が三橋に苛立ちを感じるのと、本質的には同じことだと思うんですけどね。わかっていただけるでしょうか?

 小太郎がネギに対し、「根拠もなしに信じられるんが仲間ちゃうんかい」と言い放ったのはそういう意味なのだと思います。

 もし明日菜やのどかたちを「生徒」ではなく、「仲間」、対等の存在と捉えるなら、自分自身の意思を尊重するように彼女たちの意思をも尊重しろ、そして信じてやれ、たとえ何ひとつ信じるべき根拠がないとしても、と。

 栗本薫グイン・サーガ』に、自分の信じた道を突き進んだために、大切な部下たちを辺境に散らせてしまった〈黒太子〉スカールが、同じように部下を死地へ追いこもうとするパロの王子アルド・ナリスに対し、そのことをどう思っているのだ、と問い質す場面があります。

鷹とイリス―グイン・サーガ(65) (ハヤカワ文庫JA)

鷹とイリス―グイン・サーガ(65) (ハヤカワ文庫JA)

 そのとき、ナリスはこう答えるのです。長くなるけれど、引用してみます。

「私は、いま、心から、『それは、かれら自身が選んだことなのだ。だからそれについて、私がいたんだり、くやんだりするのはあまりに傲慢である』と答えることができます。――私自身もたとえ誰にさとされようとすかされようと、あるいはさまたげられようと迷うことなくおのれの信ずるままに進んできてここにいたった。そしておのれののぞみをつらぬくためにつきすすみ、そのために死んでもいいと思っている。(略)かれらがもしここに亡霊となって立ちあらわれたとしたら、かれらは何というと思います。かれらは誰もあなたを責めはしない。かれらはおのれのことを誇りに思っていないでしょうか? そしてあなたのいのちを守るため、あなたの望みをかなえるためにそのいのちをささげたことをもって『自分の生まれてきたのはこのためだったのだ』と思って死んでいったのではないのですか――あなたのために。あなたのお役にたててよかった――と。(略)」

「あなたが、かれらに命じたのではない。かれらが、あなたを選んだのだ。あなたには、選ばれたことに対する責任こそあれ、かれらの死を背負いこむ理由などありませんよ。あったとしたらそれは傲慢というものです。こういっては、傷ついているあなたにきびしすぎることばときこえるかもしれませんが。私は――私もまた、いろいろと悩みました……私の迷いを啓いてくれたのは、私がその一生をほろぼすことになった男のことばだった。私が正しい愛国者の道からひきずりおろし、闇にひきこみ、迷わせ、恋を奪い、ともに破滅することへひきずりこんだ、その男がにっこりと笑って、『あなたじゃない、私があなたを選ぶのだ』と考えるにいたったとき――私は、はじめて知りました。それでは世の中には、何かを与えてやることではなく――何かをしてもらうこと、何かを与えてもらうことによってだけ与えることのできる贈り物ものあるのだなと――その贈り物の名は、《信頼》というのだと」

 この、ナリスが知ったことこそ、これからネギが知らなければならないことだと思うのです。

 たとえ、かたちの上ではリーダーとフォロワーに分かれるとしても、本当は対等な人間同士なのであり、そうである以上、リーダーにもフォロワーの意思を覆す権利はないのだということ。

 リーダーがフォロワーの信頼に応える最大の道、それはくよくよと自分の決断を悔やむことではなく、ただ、かれらの決断を感謝した上で、自分の信じる道をまっすぐに進んで行くことなのだということ。

 それがわからないうちは、どんなに賢くても、やはり「バカ」としかいいようがない。これは知能より、むしろ器量の問題なのかもしれない。

 小野不由美の『十二国記』の一巻、『東の海神、西の滄海』に、雁州国延王尚隆が、抜擢を感謝するある部下に対し、こう言い放つ場面があります。

東の海神 西の滄海 十二国記 (講談社文庫)

東の海神 西の滄海 十二国記 (講談社文庫)

「礼は言わぬほうがいい。仮に州侯が叛旗を翻せば、まず間違いなく牧伯の身は危うい。州侯城へ行ってくれと言うは、万が一、事があったときには命を捨ててくれと言うに等しい。――だが、俺には手駒が少ない。死なせるにはあまりに惜しいが、お前の他に行ってもらう者がいない」

 あまりにも惜しいが、お前しかいない。

 酷薄非情なようでいて、これほど篤い信頼を表す言葉もない。ぼくなら、このひとの、このひと言のために死んでもいい、と思う。

 そして、このひとのためなら死んでもいいとまでひとを心酔させること、それこそ、最高のリーダーの条件といっていいでしょう。ネギくんは、そういう意味ではまだまだですね。

 ま、ネギがそういう高みに至るまでのプロセスとして、かれの仲間たちがひどい目に遭う、ということあってもいいでしょう。

 しかし、そこでネギがあらためて責任に目覚め、彼女たちをたたかいに巻き込んだことを後悔する、ということはありえない、と断言してもいい。いままで『ネギま!』の物語は、一貫して、その反対の方向へ進んでいるからです。

 だから、ネギが本当に夕映たちのことを思うなら、あくまで対等の仲間として信頼を贈ることこそ、最も誠実な道だといえる。夕映たちもまた、それをのぞんでいるでしょう。

 それが、それこそが、ひとが、ひとを愛するということなのだから。