『ジェンダーで学ぶ社会学』

ジェンダーで学ぶ社会学

ジェンダーで学ぶ社会学

 タイトル通りの本である。昨年出版なのに、内容が妙に古くさくて困った。たとえば、「愛」について語った章にはこうある。

 そもそも、一般的にいって、女性たちのほうにとくに、恋愛への深い関心があるのは否定できない。子ども向けのコミック世界にあっても、最近ではジェンダーの世界を越境するものもあらわれたとはいえ、典型的には、男の子向けには怪獣ものから始まってスポーツ根性ものなどいろんなジャンルがあるのに対し、女の子向けは恋愛をストーリーの中核にしたマンガがほとんどだといっていい。

 いやいやいやいや、それはないでしょ。

 いまどき、「女の子向け」の漫画だって、「男の子向け」に匹敵するくらい色々なジャンルがあるし、そもそも「男の子向け」や「女の子向け」の作品はその対象読者だけに読まれているわけじゃない。

 やっぱりこういう見方は硬直化した先入観ないし固定観念といって良いと思う。卑しくも「ジェンダー」と「社会学」を掲げた本でこの言い草はまずいのでは?

 だって、「男の子の漫画はいろいろなジャンルがあるけれど、女の子の漫画は恋愛ものばかり」なんて、それこそ形骸化したジェンダーバイアスそのものじゃね?

 ほかにも首を傾げる記述は少なくない。たとえばスポーツを扱った章では、少年たちが負傷を乗り越えて活躍する運動選手を尊敬することを取り上げ、「レスリングやラグビーの選手の圧力でつぶれた「カリフラワー耳」は、この文化のなかでこそ「男の勲章」と呼ばれるのだ」とまとめている。

 しかし、いくらなんでもいまどき変形した耳に憧れる子はそう多くないだろう。もちろん、いないこともないだろうけれど、とても一般的な話とはいいがたい。

 こういう文章を読むと、ぼくはちょっと悩んでしまう。ジェンダー研究って、一般的にいって、この社会におけるジェンダーを可変的なものと捉えて、良い方向に変えて行こうとするものですよね?

 それならば、その時代時代でジェンダーの見方がどのように変わっているか、常にチェックが欠かせないはず。

 それなのに、ジェンダー問題を語る論者が、ときにいつの社会でも普遍的にある「男らしさ」「女らしさ」の規範が人間を縛っていると信仰しているように見えるのはなぜだろう?

 もちろん、ぼくだって現代社会から性差別が消えたとは思っていないけれど、2,30年前と何ひとつ変わらないということもないはず。

 これじゃ、まるで、「ジェンダーを疑ってみよう」と説いているその本人が、ジェンダーの可変性を少しも信じていないみたいじゃないか。

 と、ぼくは思うんだけれど、どんなものでしょうね。