スポーツノンフィクション入門。

 スポーツ関連のノンフィクションを一覧的に取り上げた好著。スポーツライティングの専門家だけでなく、小説家や漫画家、芸能人の文章まで万遍なく取り上げている。

 『スローカーブを、もう一球。』の山際淳司を始め、沢木耕太郎寺山修司村上春樹村上龍三島由紀夫夢枕獏二宮清純大橋巨泉金子達仁、そして梶原一騎水島新司と、錚々たる顔ぶれが並んでいる。

スローカーブを、もう一球 (角川文庫 (5962))

スローカーブを、もう一球 (角川文庫 (5962))

 よくもまあいろいろ読んでいるものだと書き手を確認してみたら、何だ、重松先生じゃないですか。タイトルしか見ていなかったから気づかなかったよ。

 とにかく、これからスポーツ・ノンフィクションの世界で遊ぼうと思っている者にとっては実にありがたい一冊。同時に作家重松清の文章批評にもなっていて、その点もおもしろい。

 ここで取り上げられている書き手のスタイルはさまざまだが、重松はそのどれも否定しない。何かしら欠点を見つけても、そのあとに「しかし」と続け、「こういう良い点もあるじゃないか」とフォローする。

 たとえば、山際淳司「江夏の21球」のこの箇所。

(江夏は)大きくとびあがり、その周囲に選手が集まり胴上げシーンが展開された。古葉監督、そして江夏の体が宙に舞った。江夏のブルーのビジター用ユニフォームの背中には赤く《26》という数字がぬいこまれている。その《26》が、大阪球場の今にも泣き出しそうな空の下で舞った。/その直後、江夏はベンチに戻り、うずくまって涙を流したという。

 連載時の文章などと比較して「C」とアルファベットを振ったこの文章を取り上げ、重松はこう書く。

 ただの「曇り空」を、山際淳司は「今にも泣き出しそうな空」と書く。
 いかにも文学趣味のレトリックだ、という批判はあるだろう。確かに、その種の言い換えが文章にセンチメンタルな盛り上がりを与えていることは間違いない。
 しかし、山際淳司はその盛り上がりを決して無自覚に脚色しているわけではない。Cを読み返してもらえないか。「今にも泣き出しそうな空」の下で舞っているのは誰だ? 江夏ではない。一文の主語は、あくまでも背番号の《26》という数字。そのために、直前のセンテンスで描写の焦点は江夏から《26》に移されている。生身の人間から無機的な数字へ主語を転換することで、潤いを保ちつつ旧来の「お涙頂戴」のべとついた湿っぽさへと陥ることを回避しているのだ(文庫化にあたり、単行本にはあった最後の一文の「……」を削除した点も見逃せない)。

 あるいは、重松は三島由紀夫のボクシング観戦記をこう批評する。

 (前略)実も蓋もない言い方を許してもらうなら、三島の観戦記は少々頭でっかちで、リポートよりも批評のほうに傾いている。レトリックの技巧は尽くしているものの、そのぶんシンプルに躍動する臨場感には欠けるきらいがある。
 だが、それこそが署名入りの観戦記の醍醐味ではないか? 試合は〝素材〟にすぎない。書き手のフィルターを通したとき、それがどんな〝料理〟に仕立て上げられるのか。書き手の個性がたちのぼっていなければ、観戦記など書く意味も読む意味もないではないか。

 「いかにも文学趣味のレトリックだ」と批判しておいて、「しかし、山際淳司はその盛り上がりを決して無自覚に脚色しているわけではない」と弁護する。

 「少々頭でっかち」と落としておいて、「だが、それこそが署名入りの観戦記の醍醐味ではないか」と持ち上げる。この本にはこの種のレトリックが頻出する。まるでひとりで検事と弁護士を兼任しているよう。

 たぶん、読み手としての重松清は慧眼すぎるのである。見えなくて良い欠点が見えてしまう。そして、書き手として真に誠実であるために、その欠点を看過してただ礼賛することは出来ない。

 だから、「いかにも文学趣味のレトリック」と一旦は書く。しかし、具眼の批評家であると同時に熱心なスポーツノンフィクションのファンでもあるから、「しかし」と弁護せずにいられない。そういうことなのだと思う。

 そしてまた、重松の評価は実に幅広い。たとえばかれは海老沢泰久を評してこう書く。

 湿り気や修辞に酔わされてはいけない。流されてはならない。それは、〝正しく伝える〟ことの自信の持てない書き手の逃げ場になっていることだってあるんだから。

 ここだけを読むと、「なるほど、重松さんはスポーツライティングで重要なものは正確さであって、安っぽいセンチメンタリズムは禁物だと考えているんだな」と思える。

 ところが、それでいて、阿久悠の詩のことはこう書くのである。

 熱い。しかも、ウェット。てらいなく高らかに謳いあげる語り口は、もしかしたら若い読者を辟易とさせてしまうかもしれない。
 確かに一編の詩だけを取り出してしまうと、ちょっと背中がむずがゆくなってしまう感は否めない。
 しかし――この連載が、1979年から現在に至るまで、足掛け二十五年もつづいているのだという事実を噛みしめると、味わいもまた微妙に変わってくるのではないか。

 この文も典型的な「ここは良くない。しかし」型の構造だけれど、とにかく、このひとは、正確な文章は正確なりに、感傷的な文章は感傷的なりに評価してしまう。

 こういう書き方を、せっそうがない、と感じるひともいるだろう。ようするに何でもいいのか、と。しかし、ぼくはこの評価基準の多彩さこそすぐれた批評家の条件だと思う。

 たぶん、重松は良し悪しを測る物差しをいくつももっていて、個々の書き手に合わせて取り替えているのだ。

 だから、物差しをひとつしかもたない批評家に比べ、多様な文章を評価することが出来る(しかし、この文も「ここは良くない。しかし」型の書き方ですね)。

 ここらへんの器の大きさが、プロとアマチュアの最大の落差じゃないかな、と思う次第。ぼくも見習おう。