アイデンティティなんていらない。

 アラブ人はばかだって?
 アラビア数字を発明したのは彼らだ。
 一度、ローマ数字で
 長々しい筆算の割り算をやってみるがいい。

カート・ヴォネガット『国のない男』

 アイデンティティなんてご大層なもの別にいらないよ、という趣旨の記事を書こうと思ったんだけれど、どうも上手く行かない。

 仕方がないから、書きたいことを順番に書き並べて行くことにしようと思う。まとまりを欠く記事になるかもしれないけれど、どうかご容赦ください。
 アイデンティティがどうこうといっても、勿論、アカデミックなバックボーンがあるわけではない。ただぼくはこう思うようになった、というだけの話である。

 アイデンティティという言葉が、学問的にどう定義されているのか、それすら詳しくは知らない。

 とりあえず、はてなキーワードにはこのように記されている(ちなみに、「アイデンティティ」でGoogleとこの記述が一番上に出て来る)。

自我同一性、自己同一性。あるいはそれがよって立つところのもの。

アメリカの心理学者・精神分析エリクソン(Erikson,Erik H. 1902-1994。『ライフサイクル論』など)が提唱。

「私」を「私」たらしめ、一貫性、同一性を与えているものは何か、ということへの意識、自己確信。

他者や社会によって承認され、認識される自己の同一性(すなわち身元)。

平たく言い換えれば、「自分が自分である証」ということになるだろうか。自分探し、自分を見失う、自己拡散といった文脈で、キーワードとなる。

 また、Wikipediaには、次のように記載されている。

同一性。

心理学でいう自己同一性。

共同体(地域・組織・集団など)への帰属意識。例として、コーポレートアイデンティティアイデンティティ政治など。

 以上のことを踏まえて、「何かの集団に帰属することによって、「自分が自分である証」を見出そうとすること」と定義しても、そう大きく外れてはいないと思う。

 ほんとは外れているかもしれないけれど、とりあえず、この記事ではそういう前提で話を進めていくことにしたい。OK?

 で、この記事では、そういう意味でのアイデンティティなんていらないんじゃね?と主張していくつもりなのである。いらないどころか、むしろ有害なことのほうが多いと思っている。

 だって、ひとは何かしらアイデンティティを見出した途端、他人を差別しはじめるじゃないか。その一番わかりやすい例は、人種差別だろう。

 ひとを「白人」だの「黒人」だの適当なカテゴリに押しこめることによって差別するやり口が、人類史上、どんなに悲惨な出来事を生み出してきたか、いまさら説明するまでもない。

 もし人間の目が色を判別出来なかったら、それだけで死なずに済んだひとが何百万人もいるはずだ。あるいはまた民族差別というものもあるし、もちろん、性差別もある。

 どれも人間を特定のカテゴリに押しこめ、お前はこのカテゴリに属しているんだからこうするべきだ、と押し付けるという点が共通している。それこそ差別の本質だろう。

 そしてまた、他人をあるカテゴリに押しこめることは、自分自身も何かしらのカテゴリに囲いこむことでもある。ちょうど格好の例があるので、引用しよう。

子供を得られた者は、その幸せについては一切語らない事だよ。それで大勢の子供を得られない者の命を救えるかもしれないだろう。ネットの文章だからとあなどるな。幸せは、当事者間で慎ましやかにかみ締めていればいい。幸せを語れば、必ずその裏で誰かが傷ついているんだ。何もない者たちを、さらに無気力にさせているのはお前だよ。

一番性質が悪いのが、子供を産ませた男が、産んだ女を褒め称える行為だよ。お前が産んだんじゃないだろうが…お前は欲望の赴くままに女のまんこにチンコを出し入れしてハァハァしてただけのそんだけの存在だろうがよ。産ませた後は父親気取りかよ?子供産ませるなんてのはなあ、犯罪者でも出来る行為なんだよ。私を虐待した男もお前みたいに父親になったよ。私の目にはすべての子連れの男は犯罪者に見えているんだよ。

幸福を手に入れた感動的な気持ちをネットで文章で爆発させる事で、お前は大勢のそれを得られない人々を無気力にさせているんだよ。そしてお前の記事をブクマするような人間は、子供の弁当写真を撮って毎日ブログに載せる暇な専業主婦がほとんどだ。反省出来たら二度とネットで子供を作る喜びを語るな、お前が喜びを語るほどに過去の虐待被害者が耳を塞がねばならないし、子供の産めない女は先を越されたとモチベーションが萎えるだけだ。お前らの無邪気な文章は、人殺しなんだよ。

 この文章は、以下のように批判されている。

わざわざそんな他人を引き合いに出さなくても、自分がこう感じたからこう行動した、ではダメなのだろうか?先方は消えてしまったこともあって、現在は様々な意見がid:hashigotanさんのところに殺到している(これもそうだけど)ので個人でそれらに対応するのは大変だとは思う。

それでも、少なくない賛同は得られているし、理解しようと努めている方もいる、それで十分じゃないかな。どこかにいるらしい「苦痛を与えらていれるすべての独身者」を自分の背中に加えないと保てない、ということはないんじゃないかな。

そうした他人を理由にして正当化した行動はいつか自分も制御できないほど、歪んでいくだろうと危惧している。

 ひとつだけ異論がある。「いつか歪んでいく」というところは「既に歪んでしまっている」に修正したほうがいいと思う。しかし、全体的には賛成だ。

 上の記事の問題点は、本来、「自分」の意見でしかないものを、「子供を得られない者」「何もない者」の意見にすり替えているところにある。

 子供が欲しくても子供が得られない、そういう立場の人間はこの国だけでも何百万人もいると思う。単純に伴侶がいないひともいれば、何かしらの理由で子供が産めないひとも、たまたま授からないひともいるだろう。

 ひとそれぞれとしかいいようがないが、ひとついえることは、そういう人間が皆、他人の幸せに傷つくとはかぎらないということである。

 傷つくひとがいないとはいわないが、傷つかないひとだって大勢いるだろう。割合にしてみれば、傷つかないひとのほうが多いかもしれない。

 それにもかかわらず、id:hashigotanは、すべての「子供を得られない者」を代表して語っている。なぜか。それは彼女が「子供を得られないこと」にアイデンティティを見出しているからではないか、と思うわけだ。

 もちろん、ひとの内面はわからない。しかし、ほかの記事を見てみても、id:hashigotanが「子供を得られないこと」に非常に重く見ていることはよくわかる。

 そしてまた、その集団を代表しているような口ぶりでものを語るほど帰属心をもっていることもわかる。となれば、彼女が「子供を得られないこと」に「自分が自分であること」のひとつの核心を見出していると考えても良いと思う。

 それ自体は、個々人の自由である。しかし、そのアイデンティティを理由にひとを攻撃しはじめると、これはもう、そのひとの自由といって済ませるわけには行かなくなる。

 こういうことはきわめてありふれた話である。何かしらの集団に帰属し、そこに「自分が自分である証」を見出すということは、「自分が帰属していない集団」を発見するということでもある。

 そこにはどうしようもなく優越感や劣等感が絡んでくる。だからこそ、アイデンティティは危うい、とぼくは思う。

 そもそも、人間は、そう整然とカテゴライズして分けられるようなものではない。そのことは上記の記事を読めば瞭然としているだろう。

 id:hashigotanは、ひとを「子供を得られるひと」と「得られないひと」に分けて話を進めているけれども、じっさいには、このふたつのグループのなかにもさまざまな意見、思想、価値観の相違があり、一枚板には程遠い。

 もちろん、厳密に科学的なグループ区分が出来ることもあると思う。血液型がA型かB型か、身長が170センチメートル以上か以下か、そういうことは一応は科学的に区別出来る。

 しかし、そういったカテゴライズが人間の一面しか語っていないことは明らかだ。血液型がA型だからせっかちだの、O型だからのんびりだのといった占いは、いまでも生きのこってはいる。

 だが、同じ正確型の人間が皆同じ性格だと、本気で信じているひとはそういないだろう。もし本当にそうなら、人間には四つの性格しか存在しないことになる。

 また、一見するとそれよりもっと確固としたものに見えかねない人種や民族といったカテゴライズは、じつは、きわめてあいまいな代物である。あるといえばあり、ないといえばない、砂漠の蜃気楼のような存在。

 それでも、そういった蜃気楼に「自分が自分である証」を見出すひとは少なくない。ナショナル・アイデンティティ

 人類は有史以来、この神殿にどれほどのささげてきたことだろう。そしてどれほど多くのひとが、違う人種、違う国籍、違う民族だという理由で差別されてことだろう。

 だれもが簡単に「日本人」という。「中国人」といい、「アメリカ人」という。しかし、その差はいったいどこにあるのだろう。それは国籍の違いだろうか、民族の違いだろうか。

 じっさいには、その時々によって都合よく使い分けられているといっていいと思う。

 たとえば、「日本人」とは、日本国籍をもっているひとである、とする。それなら、人種や出身国は問題ではないということになる。

 外見が「白人」であろうが「黒人」であろうが、とにかく日本国籍をもっているなら日本人だ、といえなければおかしい。しかし、こういうカテゴライズに違和感を抱くひとは少なくないはずである。

 たとえば、元日本代表のラモス瑠偉日本国籍を取得しているが、ぼくたちが「日本人」というとき、たいていはかれのようなひとを想像しないだろう。

 あるいは「日本人」とは「日本民族」のことを指すのだ、と言い出せば、アイヌ琉球民族を除外することになるし、日本語を話せるものが「日本人」なのだ、といえば、どこの国のひとでも日本語さえ習得すれば「日本人」になれることになってしまう。

 そもそも、言語は変化するし、民族なんてものも、けっこう簡単に出来たり消えたりしてしまうものなのである。永久不変の科学的真実には程遠い。

 どう定義しても、そこからこぼれ落ちるものが存在する。しかし、それでも、ひとはそこにアイデンティティを見出す。これって、何なんだろう。

 たぶん、人間の思考の枠組みそのものが、カテゴライズを生むように出来ているのではないだろうか。

 ひとは生まれたときは白紙の心をもっている。しかし、そのあと、成長するにしたがって、言葉を覚え、さまざまな概念とともに、常識と固定観念を植えつけられていく。

 初め、自分以外のものはただ自分以外のものと認識していたとしても、そのうち、大人と子供を分けるようになり、男の子と女の子を区別するようになる。つまり、「自分たち」と「それ以外」を分けるようになる。

 ひとは世界をあるがままに認識することは出来ず、言葉によって分けて始めて捉えることが出来る。だから、そこに差別が生まれる。それ自体は、たぶん、どうしようもないことだ。

 いうまでもなく、世界とは本来、ネームプレートが付いて分類されているようなものではない。そこにひとつひとつに名前を付け、整理し、優劣を見出すのは人間だ。

 逆にいえば、そのような区分は人間のあたまのなかにしかない。民族も人種も、そしておそらくは性別も、すべてそうやって生み出された概念である。

 坂口尚の遺作『あっかんべェ一休』は、とんちで有名な「一休さん」の一生を追った名作漫画である。この作品のなかで、若き一休は、師から「お前の心には差別心がある」といわれ、衝撃を受ける。

 当然、かれは師のことばを否定する。平等こそ仏法の基本、差別する心などわたしにはありません。しかし、そんなかれに向かって師はいうのだ。

そうかな……ではなぜ心の塵を払いたいという? おまえが「チリ」という時「清浄」が 「浄らか」という時「汚れ」たものがおまえの心の中に生まれるのじゃ おまえが「善き」ものと思う時おまえの心は「悪しき」ものを生んでいるのじゃ おまえが「美しい」と感じる時「醜い」ものを生んでいるのじゃ

あっかんべェ一休(上) (講談社漫画文庫)

あっかんべェ一休(上) (講談社漫画文庫)

あっかんべェ一休(下) (講談社漫画文庫)

あっかんべェ一休(下) (講談社漫画文庫)

 そう、本来、自然界には「美しい」ものも「醜い」ものもない。それらはただそこに存在しているだけである。

 しかし、人間は世界をありのままに感じることは出来ないため、良いの悪いの、清らかだの汚いのと区分して理解することになる。美も、醜悪も、ひとの心のなかにしか存在しない。

 したがって、多くの場合、あるものが良いか悪いかということは、絶対的に決まっているものではなく、容易に反転できるものである。

 ここでぼく自身が多少のアイデンティティを感じている「オタク」という概念に触れてみたい。

 「オタク」とは何か? これは簡単なようでむずかしい問題だ。大泉実成さんは「オタクとは何か?」というタイトルで連載コラムを続けているくらいである。

 否定的なようでいて肯定的でもある。ただ身なりがダサいひと、という程度で使われることもあるし、ある趣味に没頭しているいわゆるマニアの意味で使われることもある。

 いい歳をしてアニメやマンガに熱中している奇人とも、反社会的な幼児性愛者とも取ることが出来る。ほとんど幻想のような概念である。

 ひとついえることは、「ザ・男性」や「ザ・日本人」、「ザ・いまどきの若者」がいないように、「ザ・オタク」という人間は存在しないということだ。

 遠目に印象だけを見るかぎり、「どこからどう見てもオタク」というひとはいると思う。しかし、本当にそのひとの人生と内面に分けいってみれば、必ずそれだけでは割り切れないものがあるはずだ。

 ときに「ザ・オタク」は捏造される。その昔、眼鏡にスーツのエコノミック・アニマル、という「ザ・日本人」が捏造されたように。

 たとえば、映画やドラマの『電車男』は、多くのひとに、「オタクとは、こういうひとなんだな」という印象を植えつけたことだろう。

電車男 DVD-BOX

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 それはじっさいの「オタク」からしてみれば、実像とかけ離れたものに見えたかもしれない。じっさい、「現実にはあんな奴いないよ」という批判は成立する。

 しかし、同時に注意しなければならないことは、いずれにしても「唯一の正確な実像」というものは存在しえないということである。

 結局、「オタク」とはいっても、ひとりひとり皆違う。「ザ・オタク」はあくまで幻想であり虚像に過ぎない。しかし、それでもひとはそこにアイデンティティを見出そうとする。

 そしてまた、時が経つと、「オタク」の内部でも、さらなるカテゴライズが始まる。あいつは濃いの、薄いの、若いから良くないの、年寄りだから駄目だのと、ひとを区別しはじめる。

 それもまた、ある層の「オタク」にアイデンティティを見出す行為と裏腹である。ひとは、差別され迫害されればされるほど、その事実を核にアイデンティティを見出すもののようである。

 その昔、「ニグロ」と呼ばれていた人々が、「ブラック・イズ・ビューティフル」を掲げてプライドとアイデンティティを確立していったように。

 だから、「オタク」は普通のひとではないのだ、もっとすぐれたグループなのだという幻想にアイデンティティを見出すひとも出て来る。岡田斗司夫が『オタク学入門』でやろうとしたことはそういうことだったのだと思う。

オタク学入門

オタク学入門

 しかし、そうやってアイデンティティを確立すれば、その概念に合致しない「オタク」を差別することになる。

 「自分が帰属する(と思っている)集団」を礼賛する行為は、「自分が帰属していない集団」に対する蔑視と反感を生む。

 「オタクは次世代を担う知的エリートなのだ」と「オタク」を定義すれば、とても知的とは見えない行為に没頭する「オタク」は下等な連中に見えてくるだろう。

 しかし、「オタク」なんてただの言葉、ただの概念に過ぎない。その言葉に囚われてひとを見下す行為は、id:hashigotanが「子供を得られないもの」を代表してみせたことと変わらない。

 まさに、「おまえが「善き」ものと思う時おまえの心は「悪しき」ものを生んでいるのじゃ」というわけである。

 それでは、ぼく自身はどうなのか? 「あなたはオタクですか?」と訊かれたらどう答えるのか?

 長いあいだ考えてきたのだが、結局、「ぼくはぼくだ」としかいいようがないように思う。ぼくはようするにぼくなのであり、それ以外の言葉でぼくの人格を記述しきることは出来ない。

 たしかにぼくは日本人であり、男性である。新潟県出身であり、1978年生まれのしし座である。そしてまた、考え方によっては、オタクである。

 しかし、そういったカテゴリをいくつ積み重ねていったところで、ぼく自身の人格に届くことはない。増して、そのなかのひとつを取り出して、「オタクなのだからもっと勉強しろ」とか、「男なのだから男らしくしろ」などといわれても困る。

 たしかにぼくは「男性」ではあるが、しかしその尺度では測りきれない部分も存在する。別の物差しで測ってみればべつの「ぼく」が浮かび上がってくるだろう。

 ところが、ある言葉にアイデンティティを見出してしまうと、それこそが自分なのだ、と錯覚してしまう。そう考えると、裸の自分とは違うものになれそうに思える。ただ、それはやはり、幻想である。

 漫画『バガボンド』に、「天下無双」という実体のない概念に囚われてしまった宮本武蔵に対し、老いた剣聖が、「天下無双とはただの言葉じゃ」と言い放つ場面があった。

バガボンド(1)(モーニングKC)

バガボンド(1)(モーニングKC)

 ただの言葉、しかし、その言葉に囚われてしまったひとにとっては、それはただの言葉ではない。人生すべてであり、そして、そう、「自分が自分である証」である。

 武蔵にとっては天下無双をきわめること、それこそがアイデンティティであり、ほかの何物にも代えがたい価値があることなのだ。しかし、それでもなお、それがただの言葉、ただの概念に過ぎないことに変わりはない。

 そもそも天下無双とは何だろう? どういう状況になれば天下無双といえるのだろうか? 武蔵はかれの前に立ちふさがる何十人という男たちを斬り殺すけれど、それでもかれが天下無双かどうかはわからない。

 どこかにもっと強い剣客が潜んでいるかもしれないし、そうでなくても、たまたま運良く勝ち抜けた、それだけのことなのかもしれないのだ。だれよりもかれ自身がそう思うようになっていく。

 どこまで勝ち抜いても、そこに「天下無双」というゴールはない。武蔵のアイデンティティは危うく揺らいでいく。

 また、同じ井上武彦の『リアル』では、交通事故により脊髄を損傷し、歩くことが出来なくなった少年が、このように独白する。

「西高の高橋―― バスケ部キャプテンで成績も上位キープ 仲間達から一目置かれ 他校の女たちにもけっこう名を知られてる感じ そこそこ悪いこともやって―― 家庭の事情はある 両親は小学4年のとき離婚した でもよくある話 もともとは幸せな――エリートサラリーマンの家に生まれ育ったことに変わりはねえ ABCDE――俺のランクはA 最低でもBより下ってことはねえだろう (幻想だそんなもん…) リアルな俺は立つこともできねえ役立たず」

リアル 1 (Young jump comics)

リアル 1 (Young jump comics)

 ABCDEと分ければ、「Aランク」の人間であること、それこそが高橋のアイデンティティだった。しかし、事故によりそのアイデンティティは粉々に打ち砕かれ、それが幻想に過ぎなかったことを思い知らされる。

 このエピソードは、アイデンティティというものがいかに危ういものか示している。

 痩せていることに「自分が自分である証」を見出し、美容に励むひとがいる。しかし、そのアイデンティティは、ダイエットに失敗すれば崩れてしまう。

 金持ちであることに「証」を見つけ、守銭奴と化すひとがいる。しかし、事業に失敗すれば、そのアイデンティティはそれまでだ。堀江貴文を見るがいい。

 生きていれば、何が起こるかわからない。「ひとより優れていること」に「証」を見出しても、いつ崩れ去ってしまうかわからない。

 絶対的なものにすら思えていた高橋のアイデンティティは、その実、ただ足が動かなくなるだけのことで壊れてしまうものに過ぎなかった。

 高橋は「Aランク」から「底辺」に落ちる。しかし、実は、それもまた幻想に過ぎない。ABCDE、そんなランクは、高橋自身の心が作り出したものに過ぎないからだ。

 高橋が救われるためには、この幻想から脱出する必要がある。かれは過去のアイデンティティを捨てなければならない。

 そもそも、脊髄損傷しようが、足が動かなくなろうが、高橋が高橋であることに変わりはないのである。その証拠に、かつての友人たちが去っていっても、ごく一部のひとたちは何の変わりもなくかれに接する。

 高橋は、自分が抱いていた価値観が、単なる硬直した固定観念に過ぎなかったことに気づき、それを相対化して新しい自分を作り出して行かなければならない。タフな作業になるだろう。

 『リアル』が、この先、どのように高橋の復活を描き出していくか、興味深い。

 それにしても、高橋のことを笑えるひとは少ないだろう。ほとんどのひとは、多かれ少なかれ、自分をランク付けし、優越感やら劣等感を感じているものだと思う。

 ぼく自身もそうだ。自分より劣っていると思われるひとを見れば優越感を感じ、逆に優れているひとを見れば劣等感を覚える。そんなことばかりである。

 そう、決して高橋のことは、そしてid:hashigotanのことも笑えない。ぼく自身、弱く不安定な自分に不安を覚える余り、何かのアイデンティティにすがり付こうとすることがしょっちゅうなのだから。

 悪辣な差別主義者がどこかにいるわけではない。すべてのひとの心に差別心は眠っており、何かのきっかけで目を覚ます、それだけのことなのだと思う。

 そういう心理は、非常に根強いものがある。ネットを見ても、イケメンだキモメンだ、モテだ非モテだ、スクールカースト上位だ下位だとランク付けに耽っているひとは散見されるではないか。

 それはときに「優越感ゲーム」といわれるけれど、同時に「劣等感ゲーム」でもある。

 「どうせお前らは非モテを見下しているんだろ」といじけてみせるにしろ、「スイーツ(笑)」とあざ笑ってみせるにしろ、あるひとつの尺度を絶対視していることに変わりはない。

 こういうひとにとっては、その尺度の正しさはあまりにも自明であり、絶対来なものに見えているのだと思う。かつての高橋にとって、自分が「Aランク」であることが自明だったように。

 現代社会は情報社会である。それは無数の価値観や固定観念が言葉に乗って発信されていることを意味する。

 それらはただの言葉、概念に過ぎないのだが、しかし、一度、その言葉に囚われてしまうと脱出は容易ではない。また脱出したいとも思わなくなる。

 「不幸な自分」にアイデンティティを見出しているひとは、その「不幸」を相対化してみせるような言説をきらうだろう。自分はこんなに不幸なのに、どうしてそれを認めようとしないのか? そしてそのひとはいつまでも不幸なままである。

 情報化社会、それはたえず雑音が鳴り響いているような社会だといえる。そういう社会では、ひとは、自分自身の本当の心の声を聞き取れなくなってしまう。

 人種、国籍、民族、性別、学歴、出身地、趣味、セクシュアリティ、性体験、恋人がいるかいないか――とにかくありとあらゆる尺度が持ち出されては、や賢いの馬鹿だの、キモいのウザいのと取り沙汰される。

 ひとはそこで他人だけでなく、自分自身をも定義し、差別し、そこに心地よいアイデンティティを見出し、そして、自分とは違う、と思いこんだ相手を攻撃する。だれもid:hashigotanを笑えない。

 前掲の『あっかんべェ一休』では、一休は、苦しい修行の末についに差別心を克服し、悟りを開く。しかし、それも一時のことである。

 都に戻った一休は、そこで偽善に怒りを感じ、ある少女に惹かれ――ふたたび、分別心の迷宮に舞い戻っていく。そんな一休の夢のなかで、口だけが大きく肥大した怪物が歌うようにわめく。

♪都は朝から晩までピーチクパーチク ♪ああだこうだ ああでもないこうでもない まるで声聞師*1がハエのように群がり勝手なことをブンブンうなっているようだ 無言(しじま)から生まれ変わって来た者よ! お前の声などかき消される あの喧騒の中ではおまえの声に耳を貸す者などいない それよりも何よりも おまえが口を開けばあの群がるハエとなる おまえが一言ものを言えばハエの仲間入りだ おまえ自身それがよーくわかったろう

♪分別心分別心!! クェーケケケ…… ♪ブンブンうなる! 白だ黒だ 明るい暗い 目が小さい大きい きれいだきたない ケチだ気前がいい 聖だ凡だ 強い弱い 背が低い高い うまいまずい 上手だ下手だ 頭が良い悪い 善だ悪だ クエーケケケ…… 人間のアゴはよく食う上によくしゃべる ♪なんとでもよく鳴く! ケケケ……

 この「都」こそ、現代社会そのものである。いや、現代社会は「都」の100倍も「ブンブンうなっている」。

 白い黒い良い悪い善だ悪だ、モテだ非モテだオタクだ一般人だ、人びとは自分自身を分別心で縛りつけ、そして他人を縛りつけようとしている。

 けれども、こういう世界で、それでもなお、自由になりたいと望むひともいる。金城一紀の小説『GO』で、「在日韓国人」の主人公はこう叫ぶ。

 別にいいよ、お前らが俺のことを在日って呼びたきゃそう呼べよ。おまえら、俺が恐いんだろ? なんかに分類して、名前をつけなきゃ安心できないんだろ? でも、俺は認めねえぞ。俺はな、ライオンみたいなもんなんだよ。ライオンは自分のことをライオンだなんて思ってねえんだ。お前らが勝手に名前をつけて、ライオンのことを知った気になってるだけなんだ。それで調子に乗って、名前を呼びながらちかづいてきてみろよ、お前らの頚動脈にとびついて、かみ殺してやるからな。わかってんのかよ、おまえら、俺を在日って呼びつづける限り、いつまでもかみ殺される側なんだぞ。悔しくねえのかよ。言っとくけどな、俺は在日でも、韓国人でも、朝鮮人でも、モンゴロイドでもねえんだ。俺を狭いところに押し込めるのはやめてくれ。俺は俺なんだ。いや、俺は俺であることも嫌なんだよ。俺は俺であることからも解放されたいんだ。

GO

GO

 自分が自分であることからも解放されたい! 血を吐くようなその叫び。

 いったいそうやって解放されるためにはどうすれば良いのだろうか? ひとは平等なのだ、と理屈をいうことは簡単だ。

 しかし、いくらカテゴライズなんて幻想だと思っていても、この「喧騒」のなかではその状態を保つことは容易ではない。

 ひとの価値が体重で決まるはずがない、と理屈ではわかっていても、誰かから「このデブ!」とののしられたら「やっぱり痩せなければ」と思ってしまう。

 オタクだの一般人だの、無意味な区分だ、とわかっていても、「オタクは死ね!」といわれたら、「何だと。オタクを舐めるなよ」と考えてしまう。そういうことはよくある。

 ただの理屈として「平等」を掲げることと、じっさいにその理念を実感して生きていくこととは全く違う。いったいどうすれば恒久的に自由な心でいられるのだろうか?

 結論からいうと、それは無理だと思う。なぜなら、「分別心から自由でいたい」と思うことは、「分別心から自由な自分」にアイデンティティを見出すことに他ならないからである。それは白い黒い良い悪いと「ブンブンうなる」ことと何も変わらない。

 ひとは変わり行くものである。放っておけばどこまでもどこまでも変化していく。

 5歳になる頃には2歳の自分を脱ぎ捨て、12歳になったら5歳の自分を忘れ、20歳ともなれば12歳のことは思い出に過ぎず――そうやって、最期のときまではてしなく変化していく、それが人間の実相であり、「確固たる自分自身」など見出しようもない。

 だから、この情報化社会の「喧騒」のなかで、ときにある価値観に囚われ、心が固くなってしまうことは、これはもう、どうしようもないことなのではないだろうか。

 その固くなった心をどうほぐすか、それが問題なのだと思う。どうやって心をやわらかくするか。実はいまのぼくにはその方法はさっぱりわからない。これが次の課題かな。

 ぼくはぼくである。ひとはぼくを「男」とか、「日本人」とか、「オタク」などとカテゴライズしようとするけれど、それらの区分を越えて、ぼくはぼくである。

 そして、ぼくはいまこの瞬間もぼく自身から遠ざかっている。10日後のぼくは、いまのぼくではない。10年後のぼくともなると、別人としかいいようがない。

 それでもかまわない。いまこの瞬間もぼくはぼく自身から解放されつづけているということだからだ。雲のようにかたちを定めず、ただこの空を流れ行く。そんなふうに生きたい。

 ダンおじさんはいやな男だった。男は戦争に行かないと一人前じゃないなんて、ひどい言い草だと思う。
 しかしわたしにはいいおじさんもいた。もう亡くなったアレックスおじさんだ。父の弟で、ハーヴァード出身で子どもがなく、インディアナポリスでまっとうな生命保険の営業をやっていた。本好きで、頭がよかった。おじさんの、ほかの人間に対するいちばんの不満は、自分が幸せなのにそれがわかっていない連中が多すぎるということだった。夏、わたしはいっしょにリンゴの木の下でレモネードを飲みながら、あれこれとりとめもないおしゃべりをした。ミツバチが羽音を立てるみたいな、のんびりした会話だ。そんなとき、おじさんは気持ちのいいおしゃべりを突然やめて、大声でこう言った。「これが幸せでなきゃ、いったい何が幸せだっていうんだ」
 だからわたしもいま同じようにしている。わたしの子どもも孫もそうだ。みなさんにもひとつお願いしておこう。幸せなときには、幸せなんだと気づいてほしい。叫ぶなり、つぶやくなり、考えるなりしてほしい。「これが幸せでなきゃ、いったい何が幸せだっていうんだ」と。

カート・ヴォネガット『国のない男』

国のない男

国のない男

*1:ひとの家の前に立って経文を読み、銭を乞う者のこと。