岡田斗司夫の教祖就任。


 伊集院光が、ラジオ番組で岡田斗司夫を批判したらしい。

 先日まで全文が某所にアップされていたんだけれど、現在は、「万が一伊集院光様並びに深夜の馬鹿力様に迷惑をかけるような事になったらどうしようもないので」削除されている。

 ま、簡単にまとめると、「ダイエット」という「宗教」を礼賛する岡田を、伊集院が「痩せたからってモテません!」と一刀両断した、ということのようだ。

 この話、表面的に見ると、「デブ芸人」の伊集院が、自慢げにダイエットの成果を語る岡田を揶揄した、というふうに見える。でも、ぼくは少し違うんじゃないかと思う。

 たしかにいまの日本には、「ダイエット教」とでもいうべき思想が蔓延している。ダイエットがいかに偉大で、素晴らしく、健康と美容に有益か――延々と語る情報があふれ、テレビではみごとな痩身の美女たちが美貌を見せつける。

 こういう状況では、わたしもきれいになるためにダイエットしようと考えないひとのほうがめずらしいだろう。

 そして、いまの岡田が「ダイエット教」の「教祖」のようにふるまっていることも一面の事実だとは思う。

 ただ、決して岡田とかれの著書だけが特別なわけではない。読んだことがあるひとは知っているだろうけれど、ダイエット本はたいていそんなものなんです。

 ためしに近くの書店に行って何冊か読んでみるといい。どれも似たようなことが書かれているから。

 しかし、「痩せていること」に高い価値が認められるようになったのは、ごく最近のことである。

 何しろ、昔の大衆は、たいてい痩せていたのだ。日本中どこへ行っても、太った農民ばかりの村なんて見つけることは出来なかったに違いない。太るためには太るだけの栄養が必要なのだから、当然のことである。

 そういう社会ではむしろ太っていることのほうに価値がある。美女の代名詞として知られる楊貴妃は、纏足のせいもあって自分ひとりでは歩けないほど豊満だったと聞く。

 玄宗皇帝が現代人と同じ価値観のもち主なら、彼女を、「デブ」のひと言で切り捨てていたかもしれない。そして、偉大な大唐帝国は亡びずに済んだことだろう。ときに贅肉は国をも亡ぼす。と、それは余談。

 さて、それでは、岡田自身はその「ダイエット教」を信仰しているのだろうか。

 ひとの心の内側はわからない。しかし、そんなこともないだろう、とぼくは思っている。

 たかがダイエットと人間的幸福を直接的に結びつけるたぐいの思想――もし当事者でなかったなら、だれよりも岡田斗司夫そのひとが笑い飛ばしそうなものだ。

 そういう意味では、今回、伊集院は、いつも岡田が引き受けている役を引き受けたに過ぎないともいえる。

 しかし、たとえ「ダイエット教」を信じてないとしても、岡田の本はベストセラーになり、岡田は「ダイエットの教祖」に祭り上げられてしまった。

 こうなってくると、いつものようにシニカルな態度を維持することはむずかしい。内心はともかく、表面的には、ベタな「ダイエット礼賛派」にならざるを得ない。

 「懸命なブログ読者の皆様へ」と題した文章で、岡田はこう語っている(原文では「以下の文章は「ノーカットで」という条件で引用・転載自由とします」と書かれているが、長ったらしいので一部だけ引用する)。

 どうか僕と一緒に、一人でも多くのダイエットの成功を手伝ってください。
 一人でも多くの人生を変えてみせようじゃありませんか。

 ただし、痩せた人はあんがい、僕たちに感謝してくれません。
 なにしろ、痩せた人たちにしてみれば、痩せたのは本を読んだためではありません。みなさんの説明によってでもありません。レコーディング・ダイエットを自分で実行したから、痩せたわけですからね。
 痩せた人は、それぞれが自分自身の努力と成果を誇らしく思うだけでしょう。

 それでいいのです。
 感謝されるわけでなく、覚えてくれるわけでなく。心ひそかに「日本の肥満人口を半分にした」という自負ぐらいしか得るものはないかもしれません。
 でも、「死ぬほど辛い」と言われる治療法を受けなくてはいけなくなる糖尿病予備軍から、一人でも多くの人を救えるかもしれません。心臓病や突然死で一家の働き手を失い、絶望へ追い込まれる家族を救えるかもしれないのです。

 世のため人のため、か!

 こんなことを本気でいっているのなら岡田斗司夫も変わったものだと思うけれど、さて、どんなものだろう。

 とにかく、いまの岡田が、こういうことをいわざるを得ない立場にあることはたしかだと思う。

 いままで笑い飛ばしてきた人間たちと同じ立場に立ってみれば、岡田ですら彼らと同じようにふる舞わざるをえないのである。

 伊集院は、そこまで洞察した上で、少し揶揄してみせたのではないか、とぼくは想像している。

 もちろん、伊集院の発言自身、どこまで本心なのかわからない。オタク芸人だの文化人なんて、そんなものである。だれが狐でだれが狸なのか、わかったものじゃない。

 さて、話は変わるけれど、世の「ダイエット教」に対して冷めたものを感じている向きには、この本がおすすめ。

センチメンタル ダイエット

センチメンタル ダイエット

 『センチメンタルダイエット』。

 表紙は何だかロマンチックだけれど、中身はロマンチックでもセンチメンタルでもなく、辛らつでおもしろい。

 そもそも、「ダイエット(diet)」とは何なのか、あるいはカロリーとは何かから始めて、あらゆるダイエットをためしては失敗していく著書の細君のエピソードをユーモラスに紹介していく。

 また、仏教、イスラムキリスト教がどのようにダイエットを扱っているか語ってみたかと思えば、女性の衣服のサイズの問題に分け入ってみたり、その調査範囲は広い。

 たとえば、「標準体重」について、本書は書く。

 そもそも「標準体重」という発想は、1901年にアメリカの生命保険会社が考案したものである。保険加入者の死亡率を調査し、最も死亡率が高くなる体重を「理想」として発表したのである。「この体重なら長生きできる」と。実際はきわめて少人数を対象に調査したもので、ほとんど女性も含まれていなかったらしいが、その数値が発表されることによって一般家庭に体重計が一気に普及したのである。つまり体重が気になるから、その基準として「標準体重」が生まれたのではなく、「標準体重」が発表されたから、人々の間に「体重」という意識が生まれたのだ。
 はじめに「標準体重」ありき。
 ダイエットもまた「標準体重」があって初めて、自分の重みに気づくといえよう。

 ダイエットを礼賛するわけでもなく、また否定するわけでもなく、少し距離をおいたところから笑いをまじえ、冷めたまなざしで見つめた良書である。

 また、こんな本もある。

ダイエットがやめられない―日本人のカラダを追跡する

ダイエットがやめられない―日本人のカラダを追跡する

 『いつまでもデブと思うなよ』を読んで、「いつまでもデブと思われてたまるか!」と決意するのも悪くない。しかし、一種の「解毒剤」としてこういう本を読むのもいいだろう、と思う。

 ところで、『フランダースの犬』最終回でその絵が登場する巨匠ルーベンスは、日本では案外人気がないようだ。そして、ムンクの神経質な絵は人気が高い。

 ひょっとしたら、この差は、ルーベンスの女性たちが豊満で、ムンクの人物が痩身であるところから来ているものではないか、と素人のぼくはかってに思っているのだが、いかがなものだろうか。