『ベルリン・フィルと子どもたち』。

ベルリン・フィルと子どもたち スタンダード・エディション [DVD]

ベルリン・フィルと子どもたち スタンダード・エディション [DVD]

 あなたは怖くないだろうか?

 生きていることが。生きてこの世界にあり、あしたも、あさっても、生きつづけていかなければならないということが。

 ぼくは恐ろしい。真夜中、布団の上に寝そべり、暗い天井を見上げていると、時々、はげしい不安がこみ上げてくる。

 あしたも生きていけるだろうか? あさっては大丈夫だろうか? 何か取り返しのつかない失敗が待っているのでは? その暗い不安が炎のように神経を灼く。

 それでも、この歳になると、いろいろとごまかし方がわかってくる。子供の頃はそうは行かなかった。

 ひとが子供であるということは、未来という荷物が、大人よりずっと重いということだ。そして、それは、大人より大きな「可能性」を抱えているということでもある。だれもが可能性を秘めている。

 『ベルリン・フィルと子どもたち』。この映画は、そんな子供たちの可能性を引き出そうと苦闘する大人たちの物語である。

 時は2002年、世界的に有名なオーケストラの名門、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の主席指揮者サイモン・ラトルは、ある大プロジェクトにいどむ。

 ベルリン・フィルの奏でる音に合わせて、250人もの子供たちに踊ってもらおうというのだ。子供だけのダンス・カンパニー。曲はストラヴィンスキー、『春の祭典』。

ストラヴィンスキー:春の祭典

ストラヴィンスキー:春の祭典

 このプロジェクトのため、ありとあらゆる性別、人種、階級から子供たちが集められた。

 男の子もいる。女の子もいる。白人もいれば黒人もいる。ベルリン生まれの子も、そうでない子も。まだ幼い子もいれば、既に大人になりかけている子もいる。

 祖国の内乱によって家族を失い、ひとり孤独に暮らしている子もいれば、未来への展望を見出せず、投げやりに生きている子も見当たる。

 いわゆる「エリート」はほとんど見当たらない。おそらく制作サイドがそういう子を集中的に撮った結果だろう、むしろ、「落ちこぼれ」に近い子たちのほうが多い。

 かれらはけっして「いい子」ではない。自分の意思でカンパニーに参加しているはずなのに、真剣になろうとはしない。

 どうせ自分には出来はしない。どこかでそう思っているようだ。惰性で生きることが骨の髄まで染み付いていて、自分を燃焼しつくすことが出来ないのだ。

 指導されている最中でもくすくす笑い、私語し、何もかも冗談に過ぎないという態度をとる。日本でも見なれた光景。

 この映画を見ていると、日本の子供が何も特殊ではないことがわかる。たびかさなる挫折が、「あきらめ」を生んだとき、子供たちは成長をもあきらめる。それはどんな国でも変わらないことなのだろう。

 かれらを教育する老振付師、ロイスマンはいう。

 何が怖いんだ? なぜビクビクする? 君たちは気づいてないが あの笑いのどこかには恐怖が潜んでる 自分がバカに見えるんじゃないかという恐怖 失敗への恐怖 友達に笑われやしないかという恐怖だ

 もし君が頑張ってる時に友達が笑ったら その子はいい友達かどうか疑問だ 友達とは君が新しいことに挑んでる時 応援してくれる者のことだ これは人生でとても大事なことだよ 友達は君が高みへ上るのを助けてくれる者だ

 「高み」。

 それこそ、子供たちが思ってもいなかったものだ。

 かれらの多くは自分自身をあきらめている。自分はこんなものだと思い込んでいる。そのあきらめが、私語になって噴出する。

 そんな子供たちに、ロイスマンはいう。違う。かならず出来る。ただ真剣になりさえすれば、きみたちには出来るのだと。

 かれの教え方はきびしい。訓練に慣れていない子供たちに対し、妥協しようとはしない。踊れるようになるまで、何度でも同じことをくり返す。

 そんなロイスマンにたびたび不満が飛び出す。それでもやり方は変わらない。ただひたすらに反復が続く。はるかな音楽の「高み」を目指して。

 そして、一週、二週、三週、四週、時が過ぎ、何かが変わっていく。何かが芽生えはじめる。初めは弛緩していた子供たちの顔が緊張していく。私語が消える。雑音がなくなり、すべてが静寂のなかで進むようになる。

 世界からかなしみは消え、孤独もまた消え去り、ただ音楽と、そしてダンスだけがあとにのこる。

 こみ上げる歓喜! からだの奥底から湧き上がって来る、止めようもない衝動。ときには空を衝くように手を高々と掲げ、ときにはすべるように走り、子供たちは舞い、踊る。

 拍手と、そして喝采が、かれらを優しく包みこむ。

 関連サイト:「ベルリン・フィルと子どもたち:セテラ・インターナショナル」