ミステリとルールの関係を『ガンダム』で説明してみるよ。

ノックスの十戒」「ヴァン・ダインの二十則」はミステリ界では常識的なことなので、わざわざ書くほどのことかと思う。しかも、流水大説竜騎士大説などを見るに、現代の推理小説(大説)では、十戒や二十則は完全に無視して書いても、(激しい批判を受けながらも)ヒット作になりうることが分かる。だから、現代ミステリにおいては、10も20も合わせて30も覚えなくても、たった1つの簡略版で十分なのではないか。

 というか、べつに古典だって守っていませんよね。

 クリスティの『ナイルに死す』とか、クイーンの『ドラゴンの歯』とか、古典にも、ロマンス要素をもり込んだ作品はたくさんあるわけです。

ナイルに死す (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

ナイルに死す (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 あまり高く評価されているとも思えないけれど、『ドラゴンの歯』は好きだなあ。ある女性が莫大な遺産を相続するところから始まるんだけれど、その相続の条件が「決して結婚しないこと」。

 めぐまれない境遇で、とくに結婚する相手もいなかった彼女は、その条件を受け入れるのですが、事件の渦中で出会った探偵と恋に落ちてしまう。

 探偵は彼女が無事に遺産相続できるように奮戦するが、そのことに成功したら、かれらの恋は実らないことになってしまう……。

 わき役のエラリイがいい奴なんだよね。とかく「軽薄」「生意気」「中期作品で悩むのは自業自得」といわれるエラリイ君ですが、ぼくは好きです。

 ま、それは余談。

 ほかにも、中国人が出てくる作品もあれば、真犯人がひとりでない作品もあるでしょう。

 では、この「十戒」やら「二十則」は何なのか。くわしくは「猫は勘定にいれません」に書かれているので、引用しましょう。

・時代背景

十戒」の中国人のくだりや探偵方法に超自然力うんぬんとか、「二十則」のラブロマンス禁止則、占い禁止則なんかは現代人の目から見ると奇異に感じますが、当時のB級、C級パルプマガジンにはミステリまがいのみょうちくりんな作品ばっかりが載っていたという背景を考慮する必要があります。そういったミステリまがい小説に物申す形で書かれたものだと考えると、この一見すると杓子定規なルールの印象が変わってくるのではないでしょうか。いわば、先生が全然言うことを聞かない悪ガキに切れた状態。「普通はここまで言わんけど、お前らはこれくらい言わなきゃわからないだろ!」

 いまふうにわかりやすく『ガンダム』あたりにたとえると、こんな感じなんじゃないかと思う(『ガンダム』を知らないひとにとっては全然わかりやすくないだろうけど)。

某『ガンダム』ファン「最近の『SEED』とか『00』とかあんなの『ガンダム』じゃねえよ! 正しい『ガンダム』を見分けるために、おれが『ガンダムの十則』を決めたから! 1、ガンダムは一機でなくてはならない。2.舞台は宇宙世紀であること。(中略)10.主人公はニュータイプであること。そういうことでこれからの『ガンダム』はこの法則を守るように! 守らなかったら『ガンダム』とは認めないからな!」

非『ガンダム』ファン「何、そのわけの分からない法則(笑)。こんなもん、作品のおもしろさと関係あるかよ! こんなルールに縛られているなんてばかじゃねえの。ガンオタきめえvvvv」

別の『ガンダム』ファン「いや、それはあいつがかってにいっているでけですから! そもそも、そんなこといいだしたら、ほとんどの『ガンダム』が『ガンダム』じゃないことになるし。そんなことで『ガンダム』そのものを批判されてもなあ」

 いや、知らんけど。たぶん。間違えていたらid:trivialあたりがツッコミいれてくるだろ。

 ま、「十戒」に、

双生児や変装による二人一役は、予め読者に双生児の存在を知らせ、又は変装者が役者などの前歴を持っていることを知らせた上でなくては、用いてはならない。

 とか、

探偵方法に超自然力を用いてはならない。(例、神託、読心術など)

 といった項目があることを考えると、当時、その手の作品がたくさんあったのでしょう。きっとノックス自身、「実は犯人は双子でした!」といった作品を読んで「ふざけんな!」と思ったことがあるに違いない。

 リンク先では、現代では、

読者の知らない手がかりによって解決してはいけない。

事件の謎を解く手がかりは、全て明白に記述されていなくてはならない

 だけで十分、とされているけれど、一般的に「フェアプレイ」のために一番重要なことは、

地の文で嘘をついてはならない。

 だと思う。

 あらためて説明する必要もないかもしれませんが、こういうこと。

 たとえば、作中に「田中一郎」と「田中次郎」という兄弟を出して、このふたりを入れ替わらせるトリックを用いるとする。

 このとき、作者は読者に「一郎」と「次郎」と誤認させる必要がある。

 しかし、その場合でも、「一郎」のことを「次郎」と書いたり、逆に「次郎」のことを「一郎」と書いたりしてはいけない。それは嘘を書いたことになる。

 ただ、単に「田中」と書だけなら問題はない。「一郎」だろうが「次郎」だろうが、「田中」には違いないから。

 もし、読者が「この「田中」というのは「一郎」のことだな」と思ったとしたら、それは読者がかってにそう思い込んだことになる。

 作者はニヤリと微笑んでいうでしょう。「よく読みかえしてください。わたしは一郎のことを次郎とは書いていませんよ。あなたがかってにそう思い込んだだけでしょう?」と。

 どうも詭弁くさいけれど、ミステリにおけるフェアプレイとは、こういうものです。

 具体的な作品名を挙げるとそれだけでネタバレになるから、よしておきますが、古典でも新作でもこの手のトリックを使ったものはたくさんあります。森博嗣さんあたりがよく使う手ですね。

 ま、「地の文で嘘をついている」とは、ようするに「矛盾したことを書いている」ということだから、「作品内に矛盾がないようにしろ」という、ごくあたりまえのことに過ぎないともいえます。

 ただ、その「ルール」のウェイトが、本格ではほかのジャンルより重いのです。ほかのジャンルなら1点減点で済むところが、20点減点くらいになるというところでしょうか。

 もちろん、それでおもしろくなるのなら、何をしてもいいとぼくは思う。地の文で嘘をつこうが、犯人が双子だろうがかまわない。

 しかし、それで良い作品を書くことは、いっそ普通に「フェアプレイ」で良い作品を書くより、むずかしいでしょう。あなただって、「実は双子でした! ジャーン!」とかいわれたら怒るでしょ?

 そういうことです。