最も美しいオープニング。


 先日、NHKのSF特集番組を見たことは書いた。

 この番組は日本SFについて語っているのだが、当時のSFアニメやSF小説の状況を垣間見てみると、あらためてそれに先んじた欧米SFはすごいと感じる。

 だって、アーサー・C・クラークは、56年に『都市と星』を発表しているんだぜ。

都市と星 (ハヤカワ文庫 SF 271)

都市と星 (ハヤカワ文庫 SF 271)

 ろくなコンピュータもない時代に、人間存在が情報化されて10億年もの歳月を過ごす(ところから始まり、さらにスケールが広がっていく)話を書いているんだから、破格の才能としかいいようがない。尋常じゃないね。

 53年に書かれた『幼年期の終り』は、おどろくべきことに、いまも古びていない。

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))

幼年期の終り (ハヤカワ文庫 SF (341))

 映画『インディペンデンス・デイ』のイメージはこの作品の冒頭そのままである。そして、この作品のほうが、はるかに美しい。

 これがまあ、素晴らしいプロローグでねえ。ぼくがいままで読んできたあらゆるプロローグのなかでも、ベストかもしれない。『宇宙のランデヴー』の冒頭も良いけれど、やっぱりこちらが上でしょう。

宇宙のランデヴー (ハヤカワ文庫 SF (629))

宇宙のランデヴー (ハヤカワ文庫 SF (629))

 物語は、冷戦時代を舞台に、二人の天才ロケット工学者の月面到達競争から始まる。

 ひとりはアメリカが誇るエンジニア、ラインホールド・ホフマン。もう一人は、ソ連を代表する天才コンラット・シュナイダー。

 かれら二人は、国家の威信と、自分自身のプライドをかけて、宇宙ロケット開発に挑んでいる。

 いわば二つの国家、いや、二つの世界を代表して見えない戦争をたたかっているに等しい。さしずめ、フォン・ブラウンコロリョフというところか。

 そしてかれらはかつては友人であり、ドイツ第三帝国崩壊に際して手を握りあって別れた仲でもあった。それだけにたがいにあいてが天才であることを知っており、内心ではあいてに先を行かれるのではないかと不安を抱いている。

 ラインホールドはいう。

「このうちで問題なのは、まずコンラッド・シュナイダー一人でしょうな」とラインホールドは答えた。「彼は天才的な頭脳をもっていた――彼にくらべれば、ほかの連中はただの有能な技術者というにすぎない。彼がこの三十年間になにを考え、なにをしたか。それはまさに神のみぞ知るのですよ。いいですか――彼はおそらくわれわれの研究成果をみんな知っているにちがいないんだ。それに引きかえ、こっちには彼のことはなにひとつわかっていない。こいつは彼にとって決定的な強みですよ」

 それに対し、アメリカの情報局員は、月に到達するのは民主主義国家のほうが先だと答えるが、ラインホールドには信じられない。

 民主主義がなんだ! ラインホールドは思った。が、それを口に出すほど馬鹿ではなかった。一人のコンラッド・シュナイダーは、選挙人名簿の百万もの名前に匹敵するのだ。そしてそのコンラッドは、ソ連邦の全資力をバックに、これまでなにを成しとげたろう? もしかすると、いまこの瞬間にも、彼の宇宙船はすでに地球をあとに宇宙へむかっているかも知れなかった……。

 そして、コンラット・シュナイダーもまた、ホフマンの才能に脅威を抱いている。

「あなたはあいかわらず楽天家だ」シュナイダーはいった。「あのエンジンがうまく働いたからって、安心するのは早すぎます。そりゃたしかに、いまのところ重大な障害といったものはありません――しかし、わたしはタラチュアからの報告を心配しているんです。ホフマンという男がどれほど優秀なやつかは前にもお話したとおりですし、彼の背後には何十億ものドルがついているんですからな。例の、彼の宇宙船の写真は、あまり鮮明ではなかったが、しかし完成が間近いことはよくわかった。それに、彼が五週間前にエンジンテストをしたことは、われわれも知っている通りです」

 天才は天才を知る。

 世界を代表するほどの頭脳をもっているからこそ、かれらにはあいての恐ろしさがわかるのだ。

 くり返すが、53年の発表なので、じっさいにこの二大国家のロケット開発競争が激化し、そして決着するのは、未来のことである。しかし、クラークは小説のなかで近未来の光景を幻視してみせる。

 かれが、資本主義にも共産主義にもたいした価値を認めていないように見えることは興味深い。ハインラインだったらこうは書かないだろう。

 これだけでも胸躍るものがあるが、すさまじいのは、かれらのその壮絶な物語は、ただの本編の引き立て役に過ぎないということだ。ラインホールドもコンラッドも、続く本編には一行も出て来ない。

 そのとき、ふいに聞こえた叫び声に、何気なく窓辺に歩み寄ったコンラッドは、「生まれてはじめて、絶望の苦さを知った」。そして、同時刻、ラインホールドも同じものを見る。

 そしてラインホールド・ホフマンは知ったのだ――ちょうどこの瞬間にコンラッド・シュナイダーが知ったのとおなじように、自分がこの競争に遅れをとったことを。しかもその遅れが、いままでひそかに恐れていたような、数週間か数ヶ月の遅れではなく、幾千年もの遅れであったことを。その無数の沈黙の影――ラインホールドが想像したよりもさらに数マイルも高い星空を飛んでいく、その無数の巨大な飛行物体は、彼の小さなコロンブス号と旧石器時代人の丸木舟との差以上に、はるかに進んだものだった。その一瞬――永遠とも思える一瞬ののち、ラインホールドが見まもり、そして全世界が見まもるうちに、その巨大な宇宙船の群は圧倒的な威厳をもって降下してきた。そして、ついに彼の耳にも、それらが成層圏の希薄な大気のなかを通過する、かすかな悲鳴のような音が聞えてきた。

 いまや、かれとコンラッドの競争、人類社会を二分して繰りひろげて来た天才同士の頭脳戦は、全く無意味なものに成り下がったのだ。

 そして、すべてを失ってしまったラインホールドの頭のなかに、失望をも絶望をも超えて、ただひとつの思いだけが、くりかえしくりかえしこだましつづける。

 人類はもはや孤独ではないのだ。

 と。

 美しい――何て美しいオープニングなんだろう。

 それまで焦点があたっていた人類の科学と技術と歴史そのものが一瞬にして相対化され、一気に視野が広がる。その強烈なセンス・オブ・ワンダー

 クラークは決して美文を弄するタイプじゃない。かれの文章は、どこまでも平明で、読みやすい。それにもかかわらず、その圧倒的な美しさはするどく読者の心を打つ。

 かれの幻視力そのもの、イマジネーションそのものが、比類なく美しいからだろう。

 クライマックスにはこの場面をさらに上回る名場面が待ち受けているのだが、多くを語ることはよそう。自分で読んでたしかめてください。すごいんだから。

 こういう作品が、いまから半世紀以上まえの、1950年代初頭に書かれていることを思うと、人間の想像力とはたいしたものだと思う。

 あの長い戦争がようやく終わり、海外SFが日本にわたってきたとき、このような作品を英語で読んだのちの日本SFの巨匠たちが、どれほどの衝撃を受けたのか、想像にかたくない。そりゃ純文学なんて書いている場合じゃないと思うだろうさ。

 これから人類社会の注目の的となるであろうロケット開発競争、クラークはその最中に、そのすべてが無に帰してしまう未来を思い描き、それをプロローグにおいて、さらにその先を幻視しているのだ。

 地球の上空に静止したその宇宙船からは、「上帝(オーバーロード)」と呼ばれる異星人たちが語りかけてくる。 かれらは、決して姿を見せることなく、人類を管理する。

 あらゆる戦争が消えてなくなり、犯罪も減り、地上に、かつて人類が夢み、しかし実現可能だとは思ってもいなかったであろう楽園が誕生する。

 ひとびとの知的水準そのものも大幅も向上し、貧困も飢餓も辞書のなかだけの概念と化す。

 もはや遮二無二競争を続ける必要もなかった。これから人類文明がどれほど進歩したとしても、あの偉大なオーバーロードたちから見れば、児戯にひとしいものに過ぎないのだから……。

 そして、なぞめいたオーバーロードの総帥「カレルレン」がついにその姿を見せるとき、物語は次の段階にすすむ。人類の理解をはるかに超越したオーバーロードたちすらも使役するなぞの存在!

 「幼年期の終り」というタイトルの意味が明らかになるとき、「かれら」は物語に登場し、かぎりなく壮大なヴィジョンとセンス・オブ・ワンダーとが、読むものを圧倒する。

 いままで地球人類が築き上げてきた幾千年もの歴史、それを「幼年期」と位置づけ、「その先」を見せるクラークの想像力は、まさに圧巻である。

 SF小説は、同時代の科学技術を背景とする性質上、ほかの文学よりも早く「腐る」。しかし、このように、時の荒波に耐え抜き、不壊の姿をたもちつづける名作もあることはある。

 半世紀におよぶ科学の進歩、そしてSF的想像力の進歩と発展すらも、この作品を霞ませることは、遂に出来なかった。こういう作品をこそ、「永遠の名作」と呼ぶべきだろう。

 巨匠アーサー・C・クラークそのひとは、かつて盟友スタンリー・キューブリックとともに描き出した2001年を越え、いまもまだ、健在である。