みんな昔子供だってね。

私も亀田家は大嫌いですが「切腹しろ」と大騒ぎすることへの違和感には同感です。負けを認めて謝れと言いたいのが本音、という意見もとてもよくわかりますが、そんな中学生の反省会みたいな気分でヒステリックになるのは恥ずかしいです。このごろネットでよくある「匿名の大勢が力を合わせれば巨大な悪をやっつけられる」というストーリーを求めて悪役捜しをする人達みたいです。みんな絶対、自分が悪、あるいは大きな存在の側にはならないと、確信しているからやってるんでしょうか。

別件ですが、私は、海燕さんのエントリは見出し無しのほうが読みやすいです…mより

 たしかに、ぼくも、亀田家が好きなのかといわれれば、決してそういうわけじゃないんですよね。

 リングの外での暴言に加えて、リング上でのあの醜態、いまとなっては亀田ファンなんてほとんどのこっていないんじゃないでしょうか。

 試合前のパフォーマンスはまだしも、試合中の反則はなあ。ちょっと庇いようがない。この一戦で、亀田大毅とその家族は、日本一有名な悪役と化したとすらいえるかもしれません。

 でも、それでもやっぱりぼくは思う。本当はどんな人間も「悪」の一言では片付けられないはずだ、と。

 ひとは皆、自分のことだってすべて知っているわけじゃない。増して他人のことなんて、その人格を形成す氷山の、ほんの一角を見ているに過ぎないでしょう。

 そこだけを見たとき、悪辣に見えたとしても、水面下にはどんな意外な一面がひそんでいるかわからない。

 いや、亀田史郎が裏で慈善事業をやっているとか、そういうことがいいたいわけではありません。そう簡単に人間を理解できるはずはない、ということです。

 そしてまた、たとえ、いま、「悪」としかいいようがない人間であるとしても、そこにいたるまでにはそれなりの過程があり、人生があり、つまり、物語があったはずです。

 ぼくたちが毎日、道端ですれ違う人々、たいして関心もなくその横を通り過ぎていく人々、そのひとりひとりに、ひとつの例外もなく、一編の小説のような、一作の映画のような、人生の物語がある。

 その意味で、すべての人間は一冊の本であるといえる。いつか紐解かれ、読まれるときを待つ分厚い本。亀田家の人々だって、やっぱりそうだ。

 しかし、神ならぬひとにそのすべてを読むすべはなく、だから皆、その表紙だけを見て、善人だ悪人だ、良い奴だいやな奴だ、などと考える。

 でも、同時に、ひとには想像力がある。他人のすべてを知り、理解することは出来ないとしても、その思いを想い、少しでも理解しようと努めることは出来る。

 亀田兄弟とその父親は、本当に見かけどおり傲慢で不遜な性格なのでしょうか? だれよりも自分がつよいと思いこんでいるのでしょうか? そんなことはないでしょう。もし本当に自信があるのなら、強敵でもかまわず勝負を挑むはず。

 亀田兄弟が日本人との対戦を避け、慎重に勝てる相手を選んで試合してきたことは、その大言壮語とは裏腹の自信のなさを示していると思います。

 そして、それにもかかわらず、かれらはリングに上がる。金のため? 名誉のため? 栄光のため? 真実はわかりませんが、父親の影響が大きいことはたしかでしょう。

 ウィキペディアによると、亀田家にはこんな過去もあるとか。

最初はボクシングは、いじめられっ子だった興毅に史郎が強制。あまりの過酷な練習に「ボクシングはやめたい」と言うと、暴行を加えた上で「どっか行ってひとりで住め! 自分で働いて飯食え! 出て行け!」と家の外に放り出し、食事も与えないという児童虐待を行っていた事実を明かしている。

 こういう状況で育てられた子供がボクシングの道を選んだとしても、それは100%自分の意思で選んだとはいえないと思うんですよね。

 本人の意思がないとはいいきれませんが、亀田家の兄弟たちは、ボクシングに憧れながらボクサーになれなかった父親の夢を背負ってリングに立っているともいえるはずです。

 そういう意味では、亀田兄弟とは、いまどきめずらしいほど親孝行の「いい子」なのかもしれません。三男の和毅などは、中学生時代、ろくに学校に通っていなかったという話も目にしました。

 だから、ぼくには興毅や大毅が本当の意味で傲慢だとは思わない。もしかれらに本物の反骨があるなら、この父親にこそ逆らって自分の道を進んでいたでしょうから。

 そういうふうに考えると、かれらの暴言も暴行も、ただ教えられた道を行くしかなかった気弱さゆえのものとも思えます。

 もちろん、真実はわからない。そしてまた、どんな親の子に生まれても、自分自身で人生を切り開く責任があるはずだ、と突き放すことも出来る。

 でもね、ぼくだって、あの家に生まれていたかもしれないのです。そのとき、はたして、父の意を無視して自分の人生を生きることが出来たか――たぶん、無理だったでしょうね。

 だから許してやれ、とはいわない。ひとへ向け石を投げたものがいま、投げられる立場になった。それだけのことではある。

 ただ、すべてを失ったみじめな敗者へ向け、いい気味だとあざ笑うとき、その心には、「鬼」がひそんでいると思うのです。

僕は、いわゆる自己啓発系の本を、「人生をダメにするためのショートトリップの麻薬」だと思っています。だって、本なんか読んでも、人生変われないんだもん(笑)。ただ単に、カフェインが多い栄養ドリンクを飲んで、数時間、眼がさえるだけ。

人が変わるというのは本当に難しい。

しかも、それが子供のころから深く習慣と心に根付いたモチヴェーション構造であるからには。そして、、、、、その変え難い頑固な動機の構造が、僕には、デモーニッシュなもの、、、、妖怪に見えるんです。それは確かに見事な比喩。ストレートな比喩だと思う。

――「『化物語』 西尾維新著 人間は心にデモーニッシュなものを抱えている」

 ひとは、心に、「鬼」を、「妖怪」を、「デーモン」を抱えている。

 大人になると、「利」や「理」ばかりを追って生きているように見えるけれど、決してそうではない。ときには、「理」に反し、「利」にならないことを平気でやらかす。

 表面、とても理性的に見えるひとですらそう。不条理で不合理な、理性の目では解析しきれない「鬼」、あるいは「魔」。それが心の暗闇に住んでいて、ときに人間を支配する。

 ひとがひとをののしるとき、表面的にはいくら「正しい」理由があっても、それだけのためにやっているはずはない。その「正しさ」の裏では、何か小暗い情念が渦巻いている。

 亀田戦のあと、TBSに「切腹させろ」と電話をかけたひとたちは、普段からそういう真似をするひとばかりなのだったのでしょうか。そうでもないと思うんですよね。

 いつもは優しく、朗らかなひとだって、何かのきっかけでわざわざ電話をかけ、「あいつを死なせろ」と言い放つことがありえる。

 あいては「悪」だから、それこそ「鬼」だから、そうしても良いのだ、そうするべきなのだ、と信じて。

 でも、そうしないひともいる。

 清水玲子の長編漫画『輝夜姫』のクライマックスで、鬼のような大人たちにいままで散々酷い目に合わされてきた碧は、仲間たちに向け、「どんな「鬼」でも殺してはいけない」と語り、「「鬼」を人間に戻す方法」を説明します。

「信じて愛して許す事」
「それが『鬼』を人間に戻す方法?」
「うん」
「それだけ?」
「うん」

 仲間たちは碧の純朴さにあきれ返ります。

「…あのな」
「オレも卑怯で嘘つきのけっこーいい性格してっけど 世の中には子供10人20人殺しても笑ってられるようーなオレを百倍悪く煮つめたような化け物だっているんだよっ」
「そんな奴は死んだって人間に戻らねーよっ 悠長に信じて許してる間にお前なんて鬼に100万回殺されちまうよ!!」

 しかし、そんな仲間に向け、かれはやわらかく、優しく微笑みます。

「10人に一人」
「いや100人に一人でも一万に一人でもいい」
「ちゃんと愛されて許されて信じられて」
「「鬼」が「人間」に戻れたら」
「少しずつ少しずつ戻れたら…」
「そしたらいいよ」

「はじめから「鬼」だった人なんていない」
「みんな」
「みんな生まれた時は「人間」だったんだから」
「みんな」
「今地球にいる人達」
「みんな…」

輝夜姫 第1巻 (白泉社文庫 し 2-16)

輝夜姫 第1巻 (白泉社文庫 し 2-16)

 そして碧は――いや、そこまで書いたらネタバレになりますが、相手が「鬼」だから何をしてもいいのだ、と考えるなら、自分もまた「鬼」になっていくのではないか、とぼくは思うのです。

 もちろん、ぼくだって、碧のようにだれに対しても優しくは出来ない。そこまで人間が出来ていない。だから、そうそう他人を責めることは出来ない。

 だけど、ひとといっしょになって「切腹させろ」と叫ぶつもりもない。ぼく自身の行動だけは、ぼく自身で選ぶことが出来るんだから。

 ひとが皆、罪人に向け石を投げているとき、いっしょになって投石したところで、だれもそのひとを責めはしないでしょう。あいてが大悪党なら、それが正当な裁きだともいえる。

 でも、そこで、あえて石を投げないことも出来る。自分の意思でその道を選ぶことが出来る。信じて許して愛することまでは無理でも、それくらいなら。

 ぼくはそうしようと思う。

あの偉い発明家も 凶悪な犯罪者も みんな昔子供だってね

――THE YELLOW MONKEY『JAM』