書評サイトは作家の敵か?


 今日の枕はこの記事。

書く事に金銭のやり取りが発生する「職業書評家」が自分の立場やしがらみ、あるいは生活のために書きたくても書けない事を、匿名掲示板の名無しやAmazonのレビュアーや大きな影響力を持ったブロガーが暴いてしまう事すら時としてあり得るのでしょう。そしてそれはネットの無かった時代には考えられないような痛苦を作家達に与えているのかも知れません。

しかし、その痛みを、

「ある意味喜ぶべき事」
「仕方のない事」
「場合によっては受け入れるべき事」
「時として我慢すべき事」
「状況によっては受け流す能力が必要な事」

と考えられない作家は、自分達がかつていたネットの無い社会が風雨から守られているぬくぬくとした温室であった事にすら未だに気がついていないのだと思います。そしてネットの普及しだしたこの時代こそが、温室の扉が開け放たれた時代じゃないのかなあと私は思います。そしてその流れは止まらないと思います。

 2ちゃんのある(自称)作家の発言をもとに、ネット時代の作家がとるべき態度を語っているわけですが、コメント欄がちょっと凄いことになっている。

 はてなのコメント欄が文字数制限にひっかかるところ、久々に見たかも。それだけ賛否を呼ぶ話題だということでしょう。

 ぼくも長年書評サイトを運営しているので(自分では書評サイトのつもり)、当然、この手の話題には興味があります。

 ネットでの自作への批判に対して、作家はどのように考えるべきか? 好きに考えればいいんじゃないかな、というのがぼくの意見。

 そもそも読まないことが一番良いと思うけれど、やはり気になるとは思うので、読んでしまうこと自体は仕方ない。

 でも、その内容に対して、「こう振舞うべき」という規範的な態度は存在しない、とぼくは考える。

 研究して参考にしてもいいし、プリントして破り捨ててもいいし、ネットに匿名で悪口を書いてもいい。どうでも好きなようにすればいい。

 直接反論することは戦術的には得策じゃないけれど、どうしてもやりたいなら止めはしない。「お客様は神様です。その批判は粛々と受け入れ反省すべし」とは全然思わない。

 神様は神様でも、厄病神とか貧乏神かもしれないしね。

 と、ぼくは思うんだけれど、こういう意見もある。

 仮にも自分の作品を世に公開することで金を稼ぐプロの人間なら、どんな批判も自分の作品に取り込もうとするくらいの貪欲さは持っていて欲しいとは思いますね。

 ぼくはそうは考えない。

 作家がどうしても参考にしたいなら止めはしないけれど、ま、十中八九、参考にならないと思う。

 第一に、ネットに上がっている「批判」なんて、そう精密なものじゃない。もちろん、なかには的確で丁寧なものもあるでしょうが、そうじゃないものも大量に混じっている。

 玉石混交、しかも「玉」2に「石」8とか、そんなものだろうう。書いている人間は皆、自分の意見は的確だと信じているものだけれど、じっさいにはそうあてになるものじゃない。

 作家は創作のプロだけれど、読者は批評の素人ですからね。素人の手前勝手な意見ほどいいかげんなものはない。いるよね、作家にだけ理想論を押しつけて自分には際限なく甘い奴。誰のこととは言わないけれど。

 そして、第二に、もし的確な意見があったとしても、そうそう参考に出来るものじゃないと思う。

 京極夏彦が、どこかで、一度に想定できる読者の数は10人ほどが限界だと語っていた。あの京極ですらそうなのだから、無数の意見を束ねてそこから進むべき道を導き出すことは容易ではないはず。

 作家は売上やアンケートなどを参考におぼろげに読者のイメージをつかむ事は出来る。しかし、それも、どこまで行っても、作家の頭のなかの「脳内読者」、蜃気楼のような虚像に過ぎない。

 結局、読者はひとりひとり別の価値観をもっているのだから、いくらアンケートを凝視したところで、万人に通用する方法論など見つけ出せないわけだ。

 作家はただ自分が良いと思う道を貫けば良いと思う。読者のいうことを素直に聞きいれて失敗したところでだれも責任を取ってくれるわけじゃない。

 むしろ、作家に必要とされるものは、だれが何といおうと最終的には自分の理想を貫き通す、その覚悟ではないだろうか。

 覚悟があって初めて、他人の意見に耳を傾ける意味も出て来る。決して譲れないものが明確であってこそ、妥協して良い点もわかって来る、そういうことじゃないか。

 ただし、批判を一々真に受ける必要はないにしろ、「批判されること」そのものは受け入れなければならないとは思う。というか、受け入れなくても批判はされる。

 その良し悪しはともかく、現実にネットはここまで広がってしまった。もはや、匿名での批判、揶揄、罵倒を封印することは出来ない。

 これから創作する人間には、その暴風に耐えることが要求されるだろう。それは、かならずしも、作家の才能とイコールではない。

 たとえば、芥川龍之介は、天才ではあったが、凡人どものさえずりを無視することが出来ないひとだった。そして、芥川の十分の一も才能がないのに、面の皮だけは十倍も厚い作家はいくらでもいる。

 ざんねんだが、これからの時代に生きのこるのは、繊細な天才より、厚顔な凡才かもしれない。好ましい事実ではないにしろ、じっさいそうなんだから仕方ない。

 というか、作家でなくても、あまり繊細すぎるひとはネットには向かないだろう。

 「Something Orange」の先月のアクセスは40万弱、ユニークアクセスでも33万くらい。ということは、1日平均でも1万人以上の読者がいるわけで、もはや平均的な作家と比べて、そう読者数は変わらないんじゃないかと思う。

 もちろん、無料だからこそ読まれるわけで、単純に作家と比較するわけには行かない。

 ただ、とにかくこれだけ読者がいれば、どうしたって、それなりの批判やら非難やらは受けるわけだ。一々気に病んでいたら、ウェブログなんて運営出来ない。ブロガーにもまた厚顔さが必要とされるのだ。

 くり返す。その資質はかならずしも才能と同一ではない。才能はあるのに、神経が細すぎて潰れていく作家もいると思う。

 しかし、たぶん、それはもう、どうしようもないことだ。ぼくたちの社会はその道を選んでしまった。

 適応か、脱落か。現代作家に与えられた選択肢は多くない。