昨日書いた「オタクたちの「卒業」しない生き方」という記事へ賛同/共感する意見が予想以上に多く、非常に嬉しいです。やっぱりぼくだけじゃなかったんだな。うん、うん。
正確にいえば、ぼくのような「忘れないひと」が「オタク」とイコールで、「卒業するひと」が「一般人」とイコールだというわけではありません。「オタク」にも、「一般人」にもいろいろなひとがいるでしょう。
そしてもちろん、「忘れない」ことが特別偉いといいたいわけでもない。「卒業」することも、しないことも、そのひとの自由。ただ、こういう生き方だってあっていいんじゃないか、そう思うだけのことです。
ただ過去の自分を捨てようとしないだけのことで、まるで何も成長していないかのように非難されることは多いけれど、それは違うよ、といいたい。
もう少しわかりやすく説明するために、仮にすべての趣味や文化が以下のように分かれていると考えてみましょう。
レベル1 子供向き(とされるもの)。
レベル2 少年少女向き(とされるもの)。
レベル3 青年向き(とされるもの)。
レベル4 大人向き(とされるもの)。
レベル5 知的な大人向き(とされるもの)。
加齢とともにあるレベルを「卒業」して行くことが当然だ、と考えるなら、「レベル2」に達したときは「レベル1」のことは忘れ去り、「レベル3」に至ったなら「レベル2」への愛着は捨て去る、ということになるでしょう。
でも、「忘れないひとたち」は、そういう道を選ばない。かれらは「レベル2」を知っても、「レベル3」を好きになっても、あいかわらず「レベル1」への愛着を捨てないのです。
そういう態度が、一部の「卒業したひとたち」から見れば、「お前、その歳でまだレベル1にいるのかよvv」というふうに見えるんでしょうね。
「普通はもう「レベル4」にいる歳だぜ? おれなんて「レベル5」も読みこなすぜ?」みたいな。
でも、違うんですよ。いや、ひとのことは分からないけれど、少なくとも、ぼくは違う。「レベル4」や「レベル5」を理解出来ないわけでも、好きじゃないわけでもないんです(いや、「レベル5」は怪しいけどさ)。
ただ、それらを愛することと同時に、あいかわらず「レベル1」のことも愛している、それだけのこと。
ようするに、「忘れないひと」たちは、「レベル5」を理解し、愛好するようになる頃には、「レベル1」から「レベル5」まで広く愛するようになっているのです。
だから、「「レベル2」なんておれはもう卒業したぜvv」といわれても、ぽかんとして、「はあ、そうですか」というしかない。「忘れないひと」の価値観には、その「卒業」という概念そのものがないのですから。
もちろん、それは非常に単純化した言い方であって、じっさいには、どの作品がレベルいくつなどと分かれているわけではありません。
しかし、こういうふうに説明すれば、おおまかなところは分かってもらえるのではないでしょうか。
そういうふうに考えていくと、「忘れないひとたち」の人生では、好きなものが減ることがないことになります。ひたすら増えていく一方。
したがって、人生のあとのほうに至るにつれて、その視野は広まり、その世界は豊かになる。昨日より今日が、今日より明日が、より楽しいことが増えていることになる。
まきがいさん(id:sikii_j)が、よく「消費するものがたくさんあって人生が楽しくて仕方ない」と言うのは、たぶん、そういうことなんじゃないかな。
いいかたを変えるなら、世界、あるいは文化を垂直に捉えるか、水平に捉えるか、という差なのかもしれない。
世界を垂直に捉えるなら、成長するためには「上」に登っていかなければ、ということになる。「上」にたどり着くことが「成長」の証。そして、「上」に至ると、「下」の人間を見下すひとも出て来る。
あるいは、「下」こそが素晴らしい世界で、「上」の連中は気取っているだけだ、と考えるひともいるかもしれない。山本弘さんなんかそれに近いと思うんですけど。
以前にも引用した『と学会年鑑』の後書きをもう一度引用してみましょう(同じ文章が『宇宙はくりまんじゅうでほろびるか?』にも再録されています)。
もう30年近く前になるだろうか、京都大学のキャンパスを歩いていたら、学内で行われる『ゴジラ』の上映会のポスターが貼ってあった。そのコピーがあまりにもおかしかったので、今でも記憶している。
<自衛隊を踏み潰し/核の怒りに炎吐く/人民の英雄ゴジラ!>
「人民の英雄ちゃうやろ! 人民踏み潰しとるやんけ!」と、僕は(心の中で)笑ったもんである。この人たちは『ゴジラ』を見るのに、こんな大層な理屈をつけなきゃいけないのかと。
だいたい、反核を訴えた作品だから良いというのであれば、広島・長崎の悲劇を題材にした映画や、『世界大戦争』『渚にて』のような核戦争ものの映画でもいいではないか。なぜ怪獣ものでなくてはいけないのだ?
『ウルトラ』シリーズにも同じことが言える。特撮ファンはよく、「故郷は地球」や「ノンマルトの使者」や「怪獣使いと少年」といった異色作を挙げ、これらがいかに素晴らしい作品であるかを力説したがる。でも、あなたたたちが『ウルトラ』を見てるのはそんな理由? 本当にそんなテーマに魅せられたから見ているの? ゴモラやエレキングやツインテールはどうでもいいの?
違うでしょ? 怪獣が好きだから、特撮が好きだからでしょ?
なぜ素直にそう言えないのか。自分の好きなものが高尚な作品であると、どうしてそんなに思いこもうとするのか。
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この文章を読むと、山本さんが反核のような「高尚」なテーマと、「ゴモラやエレキングやツインテール」といった文化を相容れないとして捉えていることがよく分かります。
これ、ようするに「レベル1」のものを「レベル4」とか「レベル5」の視点で語るな、ということだと思うんですけど。
山本さんにとって、『ゴジラ』のような作品はあくまで「レベル1」とか「レベル2」の住人の占有物であるべきなんでしょうね。上から見下ろしてごちゃごちゃいうな、と。
きっと『エヴァ』みたいな作品や、東浩紀さんみたいな衒学的なオタク評論家のことをもそういう視点で捉えていると思う。知らないけれど、たぶんね。賛同はしないけれど、理解は出来る。
しかし、もし世界を、垂直ではなく水平に捉えるなら、そこには「上」も「下」もないことになります。「レベル1」も「レベル5」も、ただその場所が違うだけで、同じ世界には違いない。
この場合、「成長」とは、生まれたとき自分がいる場所から遠くに行けるようになること、と定義出来るでしょうか。
幼い頃は「レベル1」か「レベル2」しか移動できないけれど、成長するにつれ、「レベル3」にも、「レベル4」にも出向けるようになる。
そして、何かおもしろそうなことがあれば、いつでも「レベル1」や「レベル2」へと帰ることが出来る。だから、そもそもいま自分が居るレベルにこだわったり、ましてそれを「上」だの「下」だのと捉える考え方が理解出来ない。
あるとき「レベル1」にいることを笑われても、なぜそんなことで笑われなければならないのか、不思議に思うだけ。
だって、ただその時たまたまそこに居ただけで、「レベル3」に居ることもあれば、「レベル5」に居ることもあるのですから。
そしてもちろん、同じ理由で、よく「レベル5」までたどり着いたね、と賞賛されたとしても、とくに嬉しいとは思わないでしょう。
ま、たしかにぼくも2,3歳の頃の趣味はほぼ「卒業」しているので、あくまで程度問題ではあります。「卒業」するひととしないひと、2種類にきっちり分かれているわけじゃない。でも、基本的にはこういうじゃないかと思うんだよなあ。
ひとはだれでも、幼い頃は手元にある玩具で遊んでいる。
しかし、あるとき、少し離れた場所に綺麗な蝶々が飛んでいることに気づく。あの蝶をつかまえたい。そう思い、願い、生まれた土地を離れ、ひとり、歩き出す。
行く手に立ちふさがるのは、嶮しい山々、あるいは、暗い森。しかし、そこを抜ければ、見知らぬ世界が広がっている。そして、かれの世界は一気に倍になる。
しかし、そうやって新しい場所にたどり着いてみると、まだその先に別の世界が広がっていることが分かる。そこにも、また別の、綺麗な蝶が飛んでいるようだ。
あそこへ行ってみたい、と思う。そして、そうやって蝶を追いかけているうちに、いつのまにか、かれは、世界の果てまでたどり着いてしまう。
しかし、それでもまだ、世界にはまだべつの果てもある。幼い頃思っていたこととは異なり、世界はかぎりなく広大で、ひとの一生では探索し切れないのだ。
もっと遠くへ行きたい。その思いが、ひたすらに、少年を駆り立てる。いや、かれはもう少年ではない。在りし日の少年は、幻の蝶を追いかけるうち、いつのまにか青年になり、中年になっていることだろう。
それでも、あいかわらず、その瞳には蝶が映っている。いつの日か、おそらくはかれが白髪の老人になった頃には、その歩みを止めることもあるかもしれない。
しかし、いまはまだ歩むとき。世界は広く、見知らぬ場所は多い。そして、二本の足を交互に動かせば、どこまででも行けるのだ。
だから、行け、さすらい人よ。ひとに笑われても、石を投げられても、旅を続けろ。
君の世界に国境はない。君の足が十分に頑健ならば、どこまででも自由に行くことが出来る。
君は領土なき領主であり、国土なき王である。君は知ることによってすべてを支配する。君が知ったものは全て君のものになるのだ。そう、世界がまるまるひとつ、君のものだと思え。
さあ、行け、冒険者よ。行って、すべてを手に入れろ。
君はひとつの土地に安住することなく、ひたすら旅しつづける道を選んだ。だから、君は行かねばならないのだ。嘲られながら、侮蔑されながら、君はひとり、どこまでも往くのだ。
いつの日か疲れきり、足を止めることがあるとしても、そう、いまはまだ、その時ではない。君の瞳にはまだあの日見た蝶が映っている。
行け、旅する者よ、地平線の向こうの王国が、君を待っている。
などと、朝早く起きてポエムを書いてみたりする、暇人のぼくなのであった。今日も1日が始まるぜ。