もしも完璧な映画があるとしたら。

 あなたには、こんな経験がないだろうか。

 遅い昼食を終え、だらりとソファに寝そべりながら、何気なくリモコンでテレビを点ける。

 いつものことながら下らない番組ばかり。自分のことは棚に上げて、日本人の知的水準をののしりながら次々とチャンネルを変えていく。
 どうせろくな番組はないとわかってはいるのだが、もうそういう動作が癖になっているのだ。

 ところが、ある番組にたどり着いたとき、その動作は止まる。ある映画が放映されていたからだ。

 いかにも古くさい白黒の洋画。とくに映画好きでもないあなたには興味を抱く理由はないが、どういうわけか目が離せない。

 どうせほかにろくな番組もないことだし、ちょっと見てみようか、とあなたは思う。

 その選択は正解だった。タイトルが表示されて10分も経つ頃には、あなたはソファから降り、自分でも気づかないままに姿勢を正して、夢中で画面に見入っている。

 軽妙な会話、端正な画面、そこには見るものを作中に引きこむ魔法が仕掛けられていた。あなたは、さっきトイレに行っておかなかったことに後悔を感じる。もう、一瞬でも見のがすわけにはいかない。

 いやまあ、その「あなた」とは、ぼくのことなんですが。たまたま衛星第二で放映されていた映画なんだけれど、実に良いものを見せていただきました。

 ぼくは普段からわりとあこぎな薦め方をするので、お前の褒め方は胡散臭いと思われる方もいらっしゃるでしょうが、だまされたと思って見ておいたほうがいいよ。

 もちろん、有名な原作を有名な監督が有名な役者で撮った有名な名作だから、映画好きのひとならもうとっくに見ていると思う。

 でも、ぼくはそういうことを何も知らずに見はじめたのに、始まって5分も経つ頃には、もうチャンネルを変える意思がなくなっていた。

 しょっちゅうレンタルした映画を見ないまま返してしまうこのぼくが! もし、完璧な映画という形容が許されるとしたら、こういう作品に対してだろう。

 原作は「女王」アガサ・クリスティ。監督は『アパートの鍵貸します』のビリー・ワイルダー

検察側の証人 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

検察側の証人 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 アカデミー賞5部門を獲得した『アパートの鍵貸します』は以前見ているんだけれど、そのときはそれほど感心しなかった。たぶん、目が曇っていたのだろう。今度、見かえしてみよう。

 物語は、からだを壊して入院していたロンドン法曹界の長老弁護士ウィルフレッド卿が退院してくるところから始まる。

 酒と煙草を何よりも愛し、口をひらけば毒舌を吐きまくる皮肉屋の老人だ。しかし、その仮面の下にひそんでいるのは、正義を愛する優しい心。

 ちょっとジョン・ディクスン・カーの生んだ名探偵ヘンリー・メリヴェール卿を思わせるキャラクタで、同じ皮肉屋でも、エルキュール・ポワロなどよりよほど好感がもてる。演じるは名優チャールズ・ロートン

 医者に酒と煙草を禁じられて、すっかり人生に退屈しているかれのところに、ある日、ひとつの事件がもちこまれる。動機あり、証人あり、アリバイなし、の殺人容疑。

 しかし、そのむずかしさがかえってウィルフレッド卿を奮い立たせ、かれは病身を圧して弁護を引き受けることになる。

 ところが、たったひとり被告の無実を証明出来るはずの妻は、突然かれを裏切って偽りの証言を始めるのだった。いったい彼女の狙いは何なのか?

 ウィルフレッド卿は悩みながらも事件の核心に近づいていき、ついに無実の証拠を掴み取る。そして下される判決! ところが、そこでまだ映画は10分のこっているのだ。

 わざわざ字幕の最後に「この映画の結末を決してひとに話さないでください」と書かれているので、その先の展開を話してしまうわけにはいかない。苦く、切なく、それでいてなぜか後味の良い不思議な結末とだけいっておこう。

 と、こう書いていくといかにも真面目な話のようだけれど、実は全編ユーモア入りまくり。

 何とかして酒や葉巻を入手しようとするウィルフレッド卿と、あらゆる手でそれを阻もうとする看護婦のやり取りがたまらない。

 この口うるさい看護婦、全編を通してウィルフレッド卿を仕事から離そうと画策しつづけるのだが、最後にはかれがロンドンにのこることを許す。

 その理由が実に人情味あふれている。「そうでなくっちゃ!」とひざを叩く場面である。

 クラシック映画というといかにも前時代の遺物に思えるかもしれないが、そしてぼくもそう思っていたのだが、しかしこの映画は全編ユーモアとサスペンスに満ちた超一流の娯楽作品だ。

 女たらしの色男を演じるタイロン・パワーと、その妻を演じたマレーネ・ディートリッヒも、じつに素晴らしい演技を見せている。

 そこにいるだけで空気が冷えるような、冷ややかな美貌のディートリッヒは、この年、56歳! しかし、とてもそうは見えない。そして、この事実を知っていると、この映画の結末はいっそう味わい深い。

 ああ、しゃべりすぎた。この映画を何も知らない状態で観れたぼくは幸運だ。既にこの文章を読んでしまったあなたはそこまでラッキーではないだろうが、まだ間に合う。レンタルでいいから、ぜひ見てみてほしい。おもしろいよ。