「サムライハードラー」為末大のウルトラ合理主義。

日本人の足を速くする (新潮新書)

日本人の足を速くする (新潮新書)

 繰り返して言います。日本人が早く走るために重要なのは、筋力よりむしろ、技術なのです。
 どう走れば効率がいいかを分析し、イメージし、その通りに体を動かすという意味では、筋肉よりも脳が大切、とさえ言えるかもしれません。
 フィジカル面でハンディを抱える日本人は、脳で走るべきなのです。

 うん、おもしろかったです。

 2001年の世界陸上400mハードルで銅メダルを獲得し、一躍脚光を浴びた「サムライハードラー」為末大の著書。
 タイトルこそ『日本人の足を速くする』だけれど、実はその内容は「為末大はいかにして自分の足を速くしたか」。

 アフロアメリカンの選手に比べて肉体的に劣る日本人である為末が、いかにそのハンディを埋め、乗りこえ、世界のトップクラスに君臨するまでになったか、そのプロセスがどこまでもロジカルに綴られている。

 ロジカル。そう、為末の理論はどこまでもどこまでも論理的。その緻密な理論は、「根性」や「精神力」だけで何とかしようとする精神論の対極にあるといっていい。

 もちろん、かれだって必死に練習し、努力している。しかし、もともと日本人に勝ち目の薄い世界の話である。ただしゃにむに走るだけで勝てるわけはない。

 そこで、為末はオリジナルな走行理論をひとりで完成させていく。いまや世界レベルで活躍しているにもかかわらず、為末にコーチはいない。ひとりで理論を作り、その理論を自分の肉体で実験し、奇跡のような成績を達成していくのだ。

 「日本人は脳で走るのだ」とかれは言い切る。為末はひとりの優れたハードラーであると同時に、「ハードル学」の権威でもあるのである。

 しろうとの浅ましさ、ぼくは陸上短距離なんて生まれつきの才能で決まるのではないかと思っていた。

 だって、為末の場合、たった400メートルですよ? それはもちろん、いろいろ理論もあるだろうけれど、じっさいに走る時にはただひたすら肉体に任せるだけだろうと。

 その証拠に、世界陸上でもオリンピックでも、短距離では日本人、いやアジア人は全然活躍できないじゃん。しかし、為末はそんな思い込みをあっさり却下する。

 世界的に見て、日本人があまり足が速くない理由を、かれは、まず骨格のレベルから分析する。

 日本人に能の舞が適しているのは、骨盤の角度に起因します。
 欧米やアフリカの人々はおおむね骨盤が正面を向いているのに対して、日本人の骨盤はやや上を向いています。そのために、日本人が欧米人と同じように走ると、前へ進む力が斜め上へ逃げてしまいがちです。

 自動車でいえば、少しサイドブレーキを引いているようなものだ。

 そこで、日本人が欧米人のように走るためには、この骨盤の角度を修正する必要がある。だから、意識的に骨盤を傾ける意識を持ち、からだを斜めにして走ることが最適だ、とかれはいう。「技」がいるのだ。

 また、日本人と欧米人では、筋肉のつき方も違う。

 たとえば、欧米人と日本人が同じウエイトトレーニングをしても、体への効果は少なからず違った形で表れるのです。
 どうしても体の前側に筋肉がついてしまうのが、日本人の体の特徴です。背筋より腹筋、腿も後ろ側よりも前側ばかりがたくましくなるのです。欧米やアフリカ系の選手はその逆で、背中と腿の後ろ側に筋肉がつく傾向があります。

 日本のプロ野球と米メジャーリーグ、それぞれベンチに座っている選手の体勢に一度注目してみてください。日本のベンチでは前かがみが主流なのに対して、メジャーのベンチは浅く座って背もたれによっかかっている選手ばかり。これを「緊張」と「リラックス」の違いととらえることも可能でしょうが、私は体の構造上の必然ではないかと思います。

 なるほどね。今度、注意して見てみよう。

 この差が日本人と欧米人やアフリカンの速度の差となって現れている。しかし、ハードルを飛ぶときには、この差が逆に有利に働くのだ。

 前側が発達した筋肉や上向きの骨格は、足を上げることにとても適している。そういう意味で、ハードルは日本人向きの競技なのである、と為末はいい切る。

 骨格も筋肉も、日本人と欧米人とでは、何もかも違う。だから、当然、練習方法も異なってくる。欧米人が行う上り坂ダッシュなども、日本人には適していない。むしろ、下り坂のほうが日本人向きだ。

 もちろん、下り坂より上り坂のほうが苦しいから、何かをやり遂げたような気にはなる。しかし、そういう錯覚を排除してしまえば、「とにかく足を前に出しつづけないと転びそうになる」下り坂の練習のほうが良いのだ。

 このように、為末の考え方は徹底的に理詰めで筋が通っている。そして、その常識を無視して己の理論だけに従う姿勢は、しまいにはほとんど漫画のレベルに達する。

 たとえば、世界最速の動物であるチーターに目を向け、かかとを浮かせる「チーター走法」を開発したみたり、ファッションモデルのなめらかな歩き方を真似て、「モデルウォーク走行」を編み出してみたり。

 400mを走り切るための歩数も、163歩と決まっている。その歩数は、自分の肉体を知り尽くした男の厳密な計算から生み出されたものだ。為末の世界に偶然の入り込む余地はない。

 たしかにこの本は走り方の本である。しかし、その考え方は不利な状況を打開して先へ進んでいこうとするすべてのひとに役立つのではないかと思う。決してあきらめず、どこまでもどこまでも考え抜くこと。

 日本開催の世界陸上大阪大会は、ざんねんながら惨敗だった。為末にとって陸上人生最大の大勝負となるであろう北京オリンピックでの、かれの復活劇に期待したい。