新ヱヴァに対する感想などありましたらお待ちしております。
ということなので、書いてみる。
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庵野監督が、物語としては未完成のままとはいえいったんは終わらせた「エヴァンゲリオン」という作品を、「ヱヴァンゲリヲン」と表記を変えてでもなぜもう一度作るのか?という疑問は、俺ばかりでなく、かつてあの作品に入れ込んだ人間であるなら当然思うことではないでしょうか。
テレビ版の最終2話や、それに続く旧劇場版で壮大な「ちゃぶ台返し」をやって「事件」として一度終わらせたわけですから、新作が「ストーリーとして辻褄を合わせました」程度のぬるい出来だったら絶対許さんぞこの野郎、と俺も思っていました。
しかしこないだ試写を見て、確かにストーリーとして完結させる意志は感じましたけど、そればかりではない画面の完成度を見て、ちょっと尋常ではないものを感じました。10年前の「夏エヴァ」も狂気と殺気がみなぎっていたフィルムでしたが、それとは別種類の殺気を感じたのです。それが何なのかは、まだよくわからないんですが。ただし「狂気」は感じませんでした。
その後、ネットでの盛り上がりや、オタク系の知り合いが「エヴァ、最高ですよ」と言ったりするのを見て、違和感は決定的なものになっていった。そして、自分がどれだけオタクではないか、というのを改めて感じざるをえなかった。
ラミエルも第三新東京市もヤシマ作戦も確かに圧巻だった。ところが多くのオタクが感心するこういうポイントに、僕の興味はほとんど向かなかったのである。
「強度」という宮台真司が出してきた用語は、こういうときに便利である。宮台はわれわれの生きる有り様を「島宇宙」に例えた。オタクならオタク、ギャルならギャル、暴走族なら暴走族。この成熟した社会において、人々はそれぞれの島宇宙で、他の島宇宙と没交渉的に生きるようになった。そして、この島宇宙内で問題になるものこそが「強度」である。
庵野秀明はオタクとして最大級の強度を持っているだろう。それはいみじくも妻の安野モヨコが述べたように「オタクの道は鉄道まで続いている」(『監督不行届』祥伝社)というような類の強度である。強迫神経症的にメカニカルな細部までを作りこまなければ納得できないという「強度」。まったく新しいフォルムを生み出さなければ気がすまないという「強度」だ。今回のエヴァはまさにこの方向に作りこまれ、そして多くのオタクたちはそれに同調し、その強度の方向に向かって興奮し、熱心に話し合っていた。
しかしこの強度への感性が希薄な僕は、この島宇宙の中で熱くなれずにいた。
上記の引用はそれぞれ、竹熊健太郎さんと大泉実成さんの文章である。
リアルタイムで『エヴァ』を観賞していた世代なら知っている通り、この二人は『エヴァ』放映当時、庵野秀明監督にインタビューを敢行し、『パラノ・エヴァンゲリオン』『スキゾ・エヴァンゲリオン』という2冊の本を出した人物だ。
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庵野秀明 パラノ・エヴァンゲリオン (\800本 (10))
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いわばファンサイドとしては最も製作に近い位置で『エヴァ』を観てきた人物だけに、その意見は興味深い。今回はこの文章を鍵に、あらためて『ヱヴァ』について考えてみることにしたい。
さて、先日劇場公開された『エヴァンゲリオン新劇場版:序』は、予想以上の好評である。少なくともネットを見るかぎり、圧倒的な大絶賛で迎えられている。
もちろん、ネットの評価をそのまま世間の評価と考えることは出来ないし、批判しているひとがいないわけではない。しかし、全体的に見れば、やはり大好評といっていいと思う。興行的にも成功している。
正直いって、この成功は予想外だった。だって、『エヴァ』ですよ? 今回、初めて見る若い世代にとってはともかく、リアルタイムで見ていた人間にとっては単なる優れた作品という以上の「事件」だった作品ですよ?
当然、今回も賛否両論意見百出、「庵野殺す」的な発言が次々と飛び出すものと思っていた。ところが、ふたを開けてみればこの好評。いや、ぼく自身、先陣を切って絶賛した人間なんですね。
その秘密は、大泉さんがいうところの「強度」にある。物語的に見るならば、『ヱヴァ』にはそれほどの新味はない。細部はいろいろといじってあるものの、基本的には『エヴァ』の第6話までをそのままなぞってあるといっていい。
しかし、その画面はあらゆる意味でリファインされ、クオリティアップされている。つまり、作品の「強度」が大幅にアップしているのである。
その「強度」を支えているものは、庵野秀明監督と、そしてスタッフの、細部に対する並々ならぬ執着である。
ほとんど常人の理解を絶したディテールへのこだわり、妥協なき完璧主義、それは「ウェルメイドの良作」という次元をはるかに超えたものといえるだろう。
地下からうねうねと上昇してくる要塞都市第三新東京市、襲い来る水晶のようなかたちの「使徒」ラミエル。そのイメージそのものは、既に見慣れたものに過ぎない。
しかし、それは最新の技術と、感性と、発想でもって、徹底的に改良されている。この「徹底的」ということが本当に徹底的なのがすごいところで、この点を見るかぎり、やはり庵野秀明とそのスタッフは凡庸ではない。たぶん、竹熊さんはこの点を称して「殺気」と呼んでいるのだろう。
しかし、そこに『エヴァ』にあった「狂気」はない。
考えてみれば、『エヴァ』は一本の作品として見るかぎり、まさに欠点だらけのフィルムだった。シナリオは破綻しているし、後半では作画も崩れてくる。
絵が動いていないコマの多さ。ほとんど意味がわからない最終話。週末の夕方を楽しむための娯楽作品としては失敗作というしかない。
だが、そうにもかかわらず、むしろそうであるからこそ、『エヴァ』は凡庸な「成功作」など足もとにも及ばない迫力を備えていた。それこそが『エヴァ』の「狂気」である。
断崖へ向けて走ってみせる度胸だめしレースで、減速する素振りすらなく加速しつづけ、あたりまえのようにがけ下へ消えていったライダー、そんなイメージ。
その点、今回の『エヴァ』はそういった欠点がひとつひとつ修正してあり、より完成度が高い作品に仕上げているものの、だからこそ、そこに「狂気」は感じられなかった。
『ヱヴァ』はほとんど信じられないほど良く出来たSFロボットアニメだ。しかし、逆にいえば、ただのものすごく良く出来たSFロボットアニメに過ぎない。
いいかえるなら、こういうことだ。『エヴァ』はひとによって評価が0点にもなり、120点にもなるような作品だった。あらかじめ賛否を生むことを覚悟の上で製作されているのだ。
それに対して、『ヱヴァ』は100点満点を目指して作られている、ように見える。もちろん、人間のやることだから、完璧はありえない。しかし、ありえないことを承知で、それでもかぎりなくそこに近づけていく、そんな執念を感じさせられる作品だった。まさに「殺気」を感じさせられるほどに。
ある意味で、それは120点を目指すよりもっと無謀な挑戦だといえるだろう。その挑戦を非常に高い水準で達成してのけたスタッフは、やはり賞賛されていい。
しかし、その「99点の強度」も、結局、ある価値観を共有する「島宇宙」の人間にしか通用しないものに過ぎない、と大泉さんはいいたいのだろう。。
結局、10年の歳月を経て、庵野秀明が生み出そうとしているものは、過去の作品の焼き直しに過ぎないのだろうか? 『エヴァ』のファンが『ヱヴァ』を見てそう思ってしまったとしても、意外なことではない。
でも、ぼくはそんなに心配していないんだよね。だって、まだ「序」ですよ? このままで終わるはずがないじゃないですか。
『エヴァ』にしても、『トップをねらえ!』にしても、最終話の頃には第1話の時点では想像もつかない展開になっている。
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『トップ』第1話の、あのライトなSFコメディを見て、最終話の「オカエリナサイ」を想像できたひとがいるだろうか?
だから、今回もきっと「序」の時点では予想も出来ないところまでたどり着くに違いない。そうぼくは信じている。
予告編を見るかぎり、既に「破」では、物語は大きく『エヴァ』から逸脱しているらしい。となれば、続く「急」、そして「?」では、さらにさらに大きく逸脱することになるだろう。
いったい何が待ち受けているのか? いまの時点では見当もつかない。楽しみ楽しみ。
今回の映画は、10年間『エヴァ』を支持してきたファンに対しての「サービス! サービス!」であると同時に、スタッフからの宣言だったのだと思う。
今回はこのクオリティで行きますよ、ということ。『エヴァ』と『ヱヴァ』の落差を知らしめるためには、同じ物語をそのままのかたちで語りなおしてみせることが一番いい。そういう思惑もあったのではないか。
しかし、これはまだ助走段階である。これから先の展開は、こんなものではないに違いない。ぼくはそう信じる。
10年前の『エヴァ』は、アニメファンという「島宇宙」を超えて広がっていった、稀有な作品だった。その理由は、やはりメッセージの同時代性にあったと思う。
「生きることは気持ち悪い」、「他者は恐ろしい」、そういうふうに感じる感性は、かならずしも狭い意味でのオタクだけのものではなく、この「不安の時代」を生きる多くのひとが共有できるものだったのである。
大泉さんは『ヱヴァ』を支持している「島宇宙」の人間を「オタク」と同一視し、その「島宇宙」に属していない自分を、「オタクではないのではないか」と考えているようだ。
しかし、この10年間で、『エヴァ』のファン層は、従来「オタク」と呼ばれていたひとたちを超えて広がっていると思う。
『エヴァ』のファンを自認する宇多田ヒカルが主題歌を担当していることもその現れだし、綾波レイがロック雑誌『ローリング・ストーン』の表紙を飾ったりもしている。
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ぼくは、宇多田ヒカルの作る曲に、どこか『エヴァ』と共通する暗さ、憂鬱さ、神経質さのようなものを感じる。
見慣れた朝、見慣れた人
全てが最近まるで遠い国の出来事
もう一度感じたいね 暗闇の中で
希望が織りなす あざやかな音楽
どんなにつらい時でさえ
歌うのはなぜ? (さあね)
恋愛なんてしたくない
離れてくのはなぜ? Darling,darling,ah
全然なにも聞こえない
砂漠の夜明けがまぶたに映る
全然涙こぼれない
ブルーになってみただけ――宇多田ヒカル「BLUE」
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そういう意味で、宇多田が『エヴァ』のファンだという話はよくわかる。『エヴァ』には、宇多田のような人間を魅了する何かがあったのだ。
そして今回の『ヱヴァ』が、この10年間で生み出した「『エヴァ』ファン」という狭い島宇宙を飛び越えて、広い普遍性を獲得することが出来るか否か、それはひとえにこのメッセージの部分にかかっている。
生きることは気持ち悪い、その感覚を否定するのではなく、認め、受け容れた上で、さらに「その先」を示すことが出来たなら、そのときこそ『ヱヴァ』はふたたび強烈な普遍性を獲得することになるだろう。
竹熊さんではないが、シンジくんが成長して一人前になりました、物語もきちんと整合したかたちで落着しました、いまさらそんなレベルの結末など見たくはない。
でも、暗黒と絶望の「その先」に何かしらの希望を示す、圧倒的なクライマックスなら見てみたいと思う。
しかし、そんなことが可能だろうか? お約束でもなく、きれい事でもない本当の意味での「その先」を見せることが? わからない。じっさいに最後まで見てみなければ何ともいえない。
でも、とりあえず、いまぼくはふたたび『ヱヴァ』にふたたびわくわくしている。今度は何を見せてくれるのだろう? そう期待している。
どんな展開も受け容れる準備は出来ている。こっちはあの「事件」を乗りこえてきたわけですから、いまさら多少のことではおどろきません。
とりあえず、自殺するのは『ヱヴァ』を最後まで見てからにしようっと。