忘れがたい8文字。


 有栖川有栖の最新作『女王国の城』発売がいよいよ間近に迫ってきた。

 ただの新作ならそれほど注目する必要もないが、この作品、何と『月光ゲーム』、『孤島パズル』、『双頭の悪魔』に続く江神二郎シリーズ、実に15年ぶりの第4弾なのである。

月光ゲーム―Yの悲劇'88 (創元推理文庫)

月光ゲーム―Yの悲劇'88 (創元推理文庫)

孤島パズル (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

孤島パズル (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

双頭の悪魔 (創元推理文庫)

双頭の悪魔 (創元推理文庫)

 綾辻行人に1年ほど遅れたデビューした「無名の新人」有栖川有栖が立て続けに上梓したこの3作は、いずれも端正な骨格と緻密な論理で読むものを魅了する。

 目をむくようなサプライズがあるわけではないものの、その隙のないロジックはまさに本格のお手本。いまに至るも有栖川はこの3作を超える長編を物していない。

 ちなみに、『月光ゲーム』は漫画化されていて、しかも非常に良い出来である。よくあのややこしい話を漫画1冊にまとめたものだと思う。原作読者にはお奨めの佳作だ。

月光ゲーム (BLADE COMICS)

月光ゲーム (BLADE COMICS)

 そうなって来ると、当然、第4弾が切望されるわけだが、有栖川はこの3作の発表後、「臨床犯罪学者」火村英生のシリーズに軸足を移してしまい、江神ファンは首を長くして続編を待つ羽目になった。

 そして待つこと実に15年、ついにこの日はやって来た。ハレルヤ! 東京創元社のサイトによると、胸躍るその内容は以下のようである!

推理あり、サスペンスあり、バイオレンスあり、アクションあり、UFOあり、椎茸あり、四字熟語あり……、まだまだ盛り沢山の500ページです。

 ……椎茸?

 えっと。大丈夫ですよね、有栖川さん? 信じていいんですよね? 15年も待った読者を裏切ったりしませんよね?

 そういうわけで、期待と不安が交錯する新作なのだが、今日はその15年前のシリーズ第3弾『双頭の悪魔』の話をしたい。前置きが長くてすいません。

 このシリーズのメインヒロインは、マリアという女子大生である。こんな名前だけれど、日本人。彼女は『孤島パズル』の事件で心に傷を負い、ある施設に逃げ込み、そこで、もとアイドルの少女由衣と出逢う。

 彼女もまた、スキャンダルとプレッシャに耐えかね、その施設に逃げ込んできたのだった。そしてまた、彼女は、過食症のため体重が倍に増えたいまの自分にコンプレックスを抱いていた。

 しかし、殺人事件が起こり、由衣は否応なく外の世界に出ることになる。そのとき、マリアは遠方に見える自分の先輩を指し示し、由比にこうささやく。

「織田さんって先輩がいるの。ほら、あの前の方にいる背の低い方の人。あなたの大ファンなのよ。ご挨拶がすんだら、Tシャツの背中にサインしてあげてね。きっと喜ぶわ」――彼ならきっと喜ぶ。

 昔から、この「彼ならきっと喜ぶ」という8文字(句点をいれて9文字)が好きで好きで。マリアが心のなかで漏らしたこのひと言は、きっとこういう意味だと思う。

 過食症のために体重が倍になった由衣は、アイドルだった頃とは変わり果てた姿になっている。

 もし、織田が由衣の顔かたちに惹かれただけで、しかもデリカシィに欠けた男なら、そんな彼女に対し失望をあらわにし、由衣を傷つけることだろう。

 しかし、織田はそんな男ではない。かれなら、由衣がどんな姿になっていても、いちいち事情を問い質したりせず、よろこんでサインを求めるに違いない。かれはそれだけの器量と優しさをもった人間だ、と。

 織田はこの物語の主役格ではない。ただの脇役である。しかし、このたった8文字のおかげで、かれをとても好きになった。

 「彼ならきっと喜ぶ」。この8文字のなかに、マリアが織田に寄せる信頼と尊敬があふれている*1

 じっさいには、由衣と織田が邂逅する場面はこの作品では描かれない。しかし、物語が終わったあと、マリアが想像するとおりの光景がくり広げられたことを疑わない。

 きっと、織田はマリアに紹介されて由衣と出会ったことだろう。そして、心からその出逢いを喜んだに違いない。織田とは、そういう男なのだ。

 そして、その無邪気な喜びようは、由衣の傷ついた心を少しは癒してくれることだろう。このわずか8文字のおかげで、ぼくもそう信じることが出来る。

 この8文字があるかどうかで、読後感はまるで変わってくる。小説とは、こういうものである。細部の設計が全体に大きな影響を及ぼす、きわめて繊細な建築物なのだ。

 願わくば、『女王国の城』にもそんな魔法の一行がありますように。有栖川さんが、椎茸にこだわりすぎていませんように……。

 『女王国の城』発売まで、あと2週間足らず。

*1:といっても、べつに恋愛関係とかじゃありません。念のため。