先程、一通のメールが届きました。
一行だけかよ。
ぼくのところに来るメールはこんなのばかりだな。
たまには、「高二の女の子です。id;kaienさんのファンになりました。会ってくれなんていいません。影から思っていていいですか」とかそういう内容はないのか。あったら怖いけど。
ま、一見URLに見せかけた暗号とかじゃないだろうから、このリンク先を読んで記事を書けということでしょうね。
えい、クリック。
あ、何だ、唐沢さんと村崎さんの対談じゃないですか。
村崎▲ネットでの一部の炎上ぶりに反して実際はどういう状況になってるかは、オレも全部聞いているんで言いたくて言いたくて仕方ねえんだけど、また前回みたいにカットされるのも会話の無駄なんでやめとくよ。それにしても、ここまで来たら唐沢さんも実刑喰らって投獄された方が、いろんな意味でスキルアップにもなって、“真摯な反省”もできるからいーんじゃねえの?
唐沢●っていうか、もはや一部では唐沢俊一は明日にでも牢屋に入れられてしかるべき人物ってことになってるんだな。あれには笑った。
村崎▲実際、この件に関しては諸悪の根源が唐沢さんにあるんだから、しょうがないよね??♪ まあ、安心してよ、世界中の誰が何と言おうと、オレだけは唐沢さんの無実を全く信じてないから(きっぱり)。
唐沢●前回も聞いたって、そのギャグ(笑)。
村崎▲ギャグじゃなくてフツーに本心なんだけど(笑)、まあ前回カットされたんだから、別にいま言ったっていいっしょ。それにしちゃ、あれだけ極悪人扱いされてるわりには、唐沢さんの身辺に何の変化もないのはどういうことよ?
唐沢●テレビやラジオや講演の仕事がフツーに来るのには自分でも驚いたね。マネージャーがうっかり依頼に“いいんですか?”と聞いてやがるの(笑)。自分とこのボスの潔白を信じてないんじゃねえか(笑)。
火に油をそそぐ発言乙。
失言や暴言でネットを炎上させるひとはよくいるけれど、ただでさえ炎上しているところに燃料を撒いてまわるひとはめずらしい。
ただ、ぼくにしてみれば、唐沢さんがこういう態度を取ることは予測できたことです。いくつか可能性があったわけだけれど、結局、いつものパターンに逃げこみましたね。
被害者の対応が悪かったからこういうことになったのだ、というひともいます。でも、ぼくは違うと思う。だって、このひと、以前のトラブルでもこの対応で通したじゃないですか。
仮に今後、裁判にもつれこんで敗訴することになったとしても、やはりこういう対応を取るだろうと思います。
「いやあ、裁判負けちゃったんだよね。ま、これでおれも極悪人の仲間入りだね(笑)」みたいな。余裕綽々、こんなこと全然気にしていないよ、というポーズ。
きっとポーズだろうと思うんですけどね。ほんとはそうとうあわてたり、悩んでいたりしたとしても、唐沢さんのスタイルではこういう態度を取らざるをえないでしょう。
だって、いままでさんざんそうやって真剣に悩むひとを笑い者にしてきたんだから。いまさら素の自分をさらけ出すことはできなくて当然。
かれが本物の勇気のもち主なら、たとえ笑い者になったとしても、真摯に対応し本心から謝罪したことでしょう。でも、あの唐沢さんですから。こんなものだと思いますよ。
もちろん、ぼくは一面識もないただの読者なので、かれが本当は何を考えているのか、そこのところはわかりません。だから、ここから先はぼくのかってな想像、妄想になります。
ただね、こういう対応を見ると、「やっぱりね」とは思いますよね。
ペトロニウスさんも書いているけれど、人間はそう簡単に変われない。今回の出来事は、唐沢さんにとっては、ある意味でいままでの自分を変えるチャンスだったということもできます。でも、かれはいつもの自分に逃げこんだ。「やっぱりね」です。
この事件、唐沢さんにとってベストな対応は、さっさとあいての言い分を認めて、謝ってしまうことだったと思います。
たしかに多少恥をかくことになるけれど、村崎さんが言うとおり、それで唐沢俊一のキャリアが無に帰すわけじゃない。ほんとに自信があるひとなら、素直に頭を下げて、事態を収拾していたことでしょう。
そうすれば、既に事件は解決していたし、ネットの話題も沈静していたはずです。しかし、ああいう対応を取ったことによって、かえって火事は広まった。
たしかに、唐沢さんの商売には大きな影響はないかもしれません。しかし、何十万というひとに、非常に悪いイメージを植えつけてしまった。
ひとは、忘れたように見えても、そう簡単に忘れるものではありません。今後、何かあるごとに、かれは「あの盗作事件の唐沢」といわれることになるはずです。
で、本人はいくらいわれても全然平気で何とも思っていない、というポーズをとることでしょうね。ほんとは気にしているとしてもね。だれも利益を得ない展開。やっかいなことになったものです。
なぜかれは執拗に事実を認めることを拒むのでしょうか。そこまでして唐沢さんが守ろうとしているものは何なのでしょうか。
金か? いや、違う。プライド、じゃないかな。
ぼくはそう思う。「自分は社会の裏表をよく知っていて、世間のひとが悩むことでも笑い飛ばす余裕がある大人なんだ」というプライド。かれが必死に守ろうとしているものはそれじゃないか。
唐沢さんや、かれの仲間の岡田斗司夫さんの態度は、一見すると非常に傲慢で鼻持ちならないものに見えます。しかし、かれらは本当に傲慢なのでしょうか。ただ、傲慢を装っているだけなのでは?
そして、そう装わざるをえないということは、その仮面の下の素顔に何かしらの不安を抱いている事実を示しているのでは? いや、ただのぼくの想像ですけどね。
上に引用した永野護の発言を見てください。これこそ傲慢で、尊大で、偉そうな言い草ですよね。でも、かれはじっさいにいっただけのことをやってきた。
もちろん、永野のデザインなんてクズ、ターンAのほうがよほどまし、そう思うひともいるでしょう。しかし、それにしても、かれが批判するあいてと同じ土俵でたたかってきたことは否定できない。
永野さんは何十年も自分自身を衆目にさらして実力で勝負してきたわけです。永野さんの傲慢なほどの自信はそういう確固たる業績に支えられている。
じゃ、そうやって批判するお前はどれほどのものなんだ? もしそういわれたなら、ナイト・オブ・ゴールドやLEDミラージュを示し、おれはこれだけのことをやってきたぞ、と答えることができる。ひとがその作品を認めるかどうかとはまた別の話です。
ひるがえって唐沢さんはどうか? 町山智浩さんはこう書いています。
唐沢は何かを創造したり、自分の思想があるわけではなく、
レアなネタを集めることだけがセールスポイントだ。
それは別に悪くはない。
でも、他人がせっかく集めたネタを、他人の切り口と文章で紹介するなら、もう何もないじゃないか。
ま、そういうことですよね。
かれはよく他人の作品を笑い飛ばすけれど、自分で作品を作る能力はない。才能の問題もありますが、それ以上に資質の問題として、できない。
じっさいに作品を作ってしまえば、どうしたって自分自身の「底」を見せることになりますから。それはメタ視点から他人を笑い飛ばすシニカルなオタクにはできないことなんです。
ここらへんのことを、竹熊健太郎さんはこのように語っています。
竹熊 僕らの世代の中から送り手が出てきたわけですけど、その中で庵野(秀明)さんみたいなクリエイターになる人と、岡田(斗司夫)さんみたいな……。
———プロデューサータイプ。
竹熊 プロデューサーというか、評論家ですよね。僕自身もそうなんですが、評論家になるタイプって、クリエイターにはなれない人が多い。批評意識が強すぎて、たとえば自分の作品にどういうツッコミが入るかということを異常に警戒してしまう。自己批評意識というのはクリエイターにとっても実は必要な資質なんですが、それが勝ちすぎてしまうと、なかなか創作ができないんですね。
クリエイターってさ、ある意味バカになって、ノーガードで自分の実存をぶつけなきゃいけないところがあるでしょう。そこがお客を感動させる原動力にもなる。批評の対象になることを恐れてはならないというか、作品を世に問う最後の段階では、あえて考えないようにしないといけない。その反面、批評家タイプの密教オタクって、他人の作品にはあれこれ突っ込むくせに、自分が批評の対象にされるのは嫌なわけですよ。これはまあ自戒も込めて言うわけですが。
———批評の対象になるのは嫌か。それは思いつかなかった。
竹熊 (密教オタクは)突っ込まれるより突っ込む側、つまり常に批評する側にいたいわけ。だから『エヴァ』で庵野さんが、創作者の立場からオタク批判をぶった時に、激烈な反発をかったのはそのせいですよ。
———そこか。それは非常に本質的な発言ですね。
竹熊 自分は頭がいい位置にいたいわけ。それで誰からも突っ込まれないかわりに、創作はできなくなっちゃうと。
この話は唐沢さんの仲間の岡田さんを例にあげていますけど、唐沢さんも同じタイプですよね。
たとえば、庵野秀明は、『エヴァ』を作ること過程で、いろいろと失敗もした。青くささをさらした。ひとに笑われもした。あざけられもした。
しかし、それはじっさいに作品を作って発表したからです。失敗も敗北も挑戦者だけに許されたこと。甲子園でエラーできるのは、甲子園に出た奴だけ。
それに対して、庵野や『エヴァ』を笑う唐沢さんたちは、事実として何か作品を作り出すことはできません。
岡田さんは『オタク学入門』のなかで、クリエイタである作り手よりも、評論家である消費者のほうが偉いのだ、と述べています。
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自画自賛ですね。でも、本当はわかっているのだと思う。いくら評論家が賢かったところで、ひとに笑われるリスクを恐れず自己開示に挑戦する愚か者がいなければ、かれらの出番は来ないということを。
もちろん、クリエイタばかりが偉いわけじゃない。一流の批評は立派な仕事です。
だから、本当に自信がある批評家なら、クリエイタに相応の敬意を払いながら、批判するべきところは批判し、認めるべきところは認めて、対等の関係を保つことができると思います。
でも、唐沢さんのこの態度を見るとね……。
ぼくは唐沢さんが大悪党だなんて思いません。ひとの文章を盗用し、指摘されると表では謝っておいて裏で開き直るなんて、どう考えても小悪党のやることです。
この対談には、不良仲間のなかで、コンビニから万引きした奴が悪のヒーローに持ち上げられていくのを見るような、何ともいえない痛々しさがあります。あいたたた。何が鬼畜なんだか。ただの万引き犯じゃん。
しかし、かれは決して自分が小悪党に過ぎないことを認めないでしょう。悪は悪でも悪の大物、世間の批判や常識など歯牙にもかけない余裕綽々の大悪党、そういう演技を続けるでしょう。
かれはそうせざるをえない。そうじゃない自分はさらせない。たぶん、もう、一生、このまま虚勢をはって生きていくんでしょうね。そう考えると、哀れな気もします。いや、ぼくの想像なんですけどね。
自分に唐沢さんや岡田さんほどの文才がないことを棚に上げていうなら、ぼくはこういうふうにだけはなりたくないと思う。いや、ぼくのなかにもあるんですよ、唐沢さん的なものは。オタクだもん。
だから、このウェブログでは意識的に青くさいことも書くようにしています。意味も無く語尾に「(笑)」をつけてごまかしたりもしないようにしています。
毎日ネットに自分自身をさらしていれば失敗することもある。無知をさらすこともある。しかし、それでいいんです。ときには恥をかいて身の程を知るようにしていかないと、本当の意味で自分自身と向き合うことができない。
自分自身の小ささ、情けなさ、下らなさ、それを心底から思い知ってようやくひとはスタートラインに立てる。そう思います。決してそこをごまかして大人物を気取るべきじゃない。
唐沢俊一というひとは、たしかに、一時、非常に大人で、清濁を併せ呑む度量をそなえた、シニカルな知識人に見えたこともありました。けれど、その内実はこれです。
かれよりあとから同じ道を歩むオタクとして、先人の轍を踏まないよう留意したいものです。
というところでどうでしょう。>URLを送ってきたひと。この記事、過去最長かもしれないですね。