ニコニコではキョンは長門より人気が高い。


 いやまあ、タイトル通りの話なんですが。

 ニコニコでハルヒ動画を見てまわっていると、ひとつの疑問が浮かび上がってきます。何でキョンはこんなに人気なんだろ、と。

 いや、腐女子キョン萌え動画を作ることはわかりますよ。でも、おそらく男性と思われる作り手(ニコニコ風にいうと「うp主」)も、キョンを一キャラクタとして外から見る動画を作っているように見える。

 これは有名な動画ですけど、男性ヴォーカルが長門視点でキョンへの想い(+その他いろいろ)を歌っているわけで、あきらかにキョンは「見られる側」になっていますよね。

 『ハルヒ』の原作は、キョン一人称の小説です。つまり、キョンは読者が感情移入し、あるいは同一化する視点人物として設定されているはずです。

 ところが、ニコニコでは、キョン長門やみくる以上に対象化され、「見られるもの」と化している。その証拠に、ニコニコで「キョン」と検索してみると、「長門」や「みくる」よりも多くヒットします*1

 つまり、ニコニコに話を限れば、キョン長門やみくる以上の「萌えキャラ」なのです。たぶん、大多数の動画は女性が製作したものだと思われますが、男性が作ったと思われるものもあります*2

 従来、「萌え」とは、作中の視点人物と同一化して、対象化されたキャラクタを「見る」行為だとされていました。たとえば、ササキバラ・ゴウは、『〈美少女〉の現代史』のなかで、「萌え」と「視点」について次のように書いています。

 このように「視線としての私」になることは、ただ一方的に「見る」存在になることであり、「見られる」側に立たない(客体にならない)ことです。そのとき私は「見られずに見る」者となるのです。
 自分が他人から「見られない」ということは、自分が「透明な存在」になっていくことにほかなりません。

 つまり、「萌え」とは、見る主体である「私」を隠蔽し、客体となることを拒み、「透明な存在」となってただ一方的に見る行為である、ということです。

 この理屈は、数年前までの萌えエロゲ(『To Heart』とか『Kanon』とか)を分析する理屈としては、それなりに説得力がありました。

 それらの作品では、主人公が画面にあらわれず(あらわれても前髪で顔がかくれていたりする)、ただ美少女たちのみが「見られるもの」として客体化されているように見えたからです。

 でも、ニコニコで見られるのは、その「私」を託された視点人物であるはずのキョンが、ヒロインたち以上に「萌えキャラ化」している。この現状は何なのか。腐女子が遊んでいるだけなら簡単なんだけれど、どうもそうは思えないんだよな。

 また、ササキバラは、女性もまた「見る主体」となっていることを取り上げて、こういいます。

 そのような女性の視線を受けとめて、ルックスに気をつかおうとする男性がいる一方で、美少女的な価値観の中にいる男は、自らキャラクターとはなりません。自分がキャラクターになろうとすると、屈折が露呈して、うまくいかないのです。それは、前に述べたように宮崎駿の監督したアニメに代表的に見られることです。人前に出て、視線というものにさらされた男は、突き刺さる視線をまともに受けとめきれず、自ら醜い豚の姿になって屈折した防御をしてみせるしかなくなります。

 ま、納得できる説です。本田透さんが過剰に自分の「キモメン」性をアピールしてみせるのも、結局は自己防御の一方策に過ぎない。

 でも、ニコニコにはあきらかに「美少女的な価値観の中にいる男」が、踊ったり歌ったりしている動画もたくさんあるよね?

 これ、製作者はあきらかにディープなエロゲオタなんだけれど、みごとに自分自身をキャラクター化して、自嘲をエンターテインメントにまで昇華し、歌まで歌っている。

 こういうものを見てしまうと、ちょっと「オタクは自分を透明化してただ見たがっている」とはいいがたいと思ってしまいますね。いったい何がどうなっているんだ。

 結局、男性だって、オタクだって変わるのだ、ということではないでしょうか。ここに来て、男性も同じ男性を「見られるもの」として認識し、ときには自分自身をキャラクタ化できるようになっているのではないか。

 そういう意味では、『〈美少女〉の現代史』は、既に過去の歴史に過ぎない。ニコニコには「現在」がある。ここから何が飛び出してくるか、非常に楽しみです。

「美少女」の現代史 (講談社現代新書)

「美少女」の現代史 (講談社現代新書)

*1:ハルヒはタイトルに名前が含まれているので比較できない。

*2:ま、もちろん真実はわかりませんが。