そんなに自分が好きなのか?


 はてなブックマークで、こんな意見が注目を集めている。

泉こなたがオタク男性のアヴァターラ(化身)であるということは、既に多くの指摘を受けている。

ここでいうオタク男性とは言うまでもなく

「一日2回の二次元をオカズとしたオナニーが日課で、エロゲとネトゲとアニメ以外に生きがいのない汚らしい屑」のことである。

そんな俺たちであったが、それでもやっぱり美少女たちに囲まれる生活には憧れがある。

しかし異性として美少女の前に己を晒すという視点は、すでに俺たちにはリアルなものではない。

どんなに駄目なキャラクターでも、美少女たちに囲まれてチヤホヤされている男性キャラクターに自分自身を重ねることは到底無理であり

「このイケメンが」と嫉妬すら覚えることも稀ではない。

三次元をとうに諦め、二次元美少女にすら傷つけられることを恐れる絶望したオタクたちは、

「せめて二次元ではモテたい」「だがモテるはずがない」という二律背反に引き裂かれかけていた。

そこに生まれたコペルニクス的転換が

「自分が美少女になればいいんじゃね?」思想であった。

美少女は美少女に拒絶されない。これがオタクがその絶望の地平線に見出した新たなる信仰であり

それにすっぽり嵌ったのが泉こなたというキャラクターだったのだ。

 いや、それはないんじゃね?

 ない、とぼくは思うんだけれど、でも、もちろん、そういうふうにして見ているひとの存在は否定できない。ただ、ぼくはそういう見方はしない。全然しない。

 こなたはこなたであり、かがみはかがみである。ぼくとは永遠に関係ない世界で、永遠に関係なく生きていていく少女たちだ。あらゆる物語の登場人物がそうであるように。

 たしかに、こなたは多くの男性オタクにとって共感しやすい性格設定をされているとは思う。でも、だからといって『らき☆すた』ファンはこなたになり切っていると考えるのは飛躍しすぎだろう。

 しかし、こういう考え方をするひとは少なくないようだ。以前引用したように、大泉実成さんは、連載コラム「オタクとは何か?」で、こう書いている。

 その後、取材を進める中で、僕は次のような理解をした。すなわち、僕のような未熟者は作品の中にどうしても自我の託せる男性キャラが欲しくなるが、熟練のオタクの妄想力があれば、女の子だけの話にも十分自分の妄想をぶち込むことができるはずだ、と。

 しかし、そうではなかったのである。
 彼らは、彼らの中の少女を十二分に共鳴させて、作品中の女子高生と同一化していたのである。彼らはそこで女になりきり、女として恋愛を、そして他愛のないおしゃべりを楽しみきっていたのだ。

 この意見もつまりは「男性が女性しか出てこない作品を楽しめるのは、女性に自己投影しているからだ」という結論であり、大筋では上で引用した意見と同じことをいっている。

 しかし、ぼくはそもそも「自分を投影できる人物がいないと作品を楽しめない」という考え方に納得できないものを感じている*1

 ぼく自身はべつに自分がその世界に参加したいわけじゃない。ただ見たいだけ、おもしろい物語、あるいは心地よい世界を見たい、それだけだからだ。いや、行けるものなら行きたいこともあるけれど。

 もちろん、ぼくだって、生きていれば、いろいろと恨み辛みもたまることもある。でも、あのときあんなひどい目に遭ったとか、好きな子に告白できなかったとか、そんなことは物語に持ち込みたくない。

 せめてアニメを見ているときくらいは、そういうことは忘れていたい。たかが自分の人生のことは。

 本田透さんは、著書『萌える男』のなかでこう書いている。

 萌えオタクの増加とは、つまり、萌えという「脳内恋愛」を目指す芸術運動がオタク市場の成立と拡大によって大衆化・普及化した結果といえる。もちろん萌える男が増加した最大の理由は、現実の世界に純愛=ロマンティック・ラブを見出せなくなったことにあるだろう。

 ようするにフィクションとは現実の代用品である、という考え方だ。現実世界で欲望が満たせないから、代わりに脳内で満たしている、それが萌えオタだというのだ。

 この種の考え方に頼っているかぎり、オタクが自分自身を投影できない作品を楽しんでいる事実は説明できない。

 自分自身にとって理想の人生を求めているはずなのに、その「自分」がいない世界を楽しむとはどういうことだ? そういう矛盾が出て来てしまう。

 あえて説明しようとすれば、オタクは女の子に自己投影するようになったのだ、と考えるしかない。

 でも、そうじゃないと思うんだよね。『らき☆すた』はまだしも、『マリみて』や、百合作品一般をそういう考え方で捉えようとすることはさすがに無理があるだろう。

 いや、そういうひとがいることは否定しないが、すくなくとも皆が皆そうだといわれると困る。

 だから、「オタクが女の子しか登場しない作品を楽しんでいる」という事実は、「オタクは女の子に自己投影できる」ではなく、「オタクは自己投影できる人物が登場しない作品も楽しむことができる」と解するべきだと思うのである。

 本田さんは、『電波男』のなかで、『ONE』を取り上げ、この作品に登場するみさき先輩がいかに素晴らしいかを得々と語っている。みさき先輩は自分がキモメンでも愛してくれる。その点が現実世界の女どもに比べてはるかにまさっている、と。

 でも、「自分のことを好きなみさき先輩が好き」ということは、それは結局は「自分が好き」だということである。「みさき先輩が好き」ではなくて。「みさき先輩萌え」といいながら、本心は「自分萌え」なのである。

 そのこと自体は悪くない。そういうひともいるだろう。ただ、だれもそうやって作品を味わっているようにいわれると困る。そうじゃないひとがいるのだから。

 こういう意見を読んでいると、ぼくは思う。そんなに自分のことが好きなのか? 自分のことしか好きじゃないのか? 自分のことが好きじゃない人間はどうでもいいのか? 自分自身の幸不幸だけがすべてか?

 ぼくは違うな。現実に女の子にもてないから、せめてフィクションのなかの女の子に好きになってほしい、そうじゃない。ただ、好きになりたい。好きになれるようなキャラクタと出逢いたい。何の報いもいらない。心から好きになれるなら、それだけで十分だ。

 本田さんの理論は、どこまでも「自分」を中心にしている。だから、かれの理論は決して現実逃避の理論ではない。どこまでも自分の人生から離れない、現実至上主義そのものである。かれにとっては現実が何より重要なのだろうか。

 こういう極端な考え方は、既に現状に合っていない、とぼくは考える。たとえば、こういう指摘がある。

しかし、ニコニコ動画はどんだけオタ作れば気がすむんだよって気にはなるなぁ。

最近でもまわりのひとの中ではニコニコ動画見てるのはmixiに入っているくらい

というといいすぎだが、ニコニコ動画YouTube見てるくらい常識になってる気がする。

で、ニコニコ動画mixiYouTubeなんかと比べ物にならんくらいオタ文化なわけで。

同人!っていうと、オタクきめぇ見たいな感じで拒否感が出るようなひとでも

MADとかは楽しめてしまうのではないかなぁ。

たとえば、らき☆すたOP再現MADとかよく見かけるけど、

○○○×らき☆すたのネタのMADを○○○目当てで見ていたんだけど

ある日ふと、○○○だけでなくらき☆すたの方も見てみようかなぁとか

思ってらき☆すたを見てハマってしまった、とか。

何しろアニメ本編までアップロードされているような環境なんだから。

 そう、ニコニコ動画のような新しい「場」の誕生は、オタクであることにこだわりもなく、へたすると自覚すらない「ライト萌えオタ」を増やしていだろう。

 そして、そういうひとが増えると、「萌えこそ真の純愛だ」とか、「2次元か、3次元か」という、何かの宗教のような言い草はいっそう説得力を失っていくはずである。

 そうして単なる趣味としてアニメを楽しむ層が増えていけば、「オタク」という概念に確固たるアイデンティティを見出すような層は、必然的に少数派に転落する。

 オタクこそ現代の知的貴族だ、というひともそうなるし、オタクこそ死に絶えた純愛を実践している、というひともやはりそうなる。何か猟奇的な殺人事件でも起こらないかぎり、この方向性は変わらないだろう。

 オタクを「解放」しようと思ったら、秋葉原でデモ行進したりする必要はない。ニコニコにおもしろいMADをアップするほうがよほど有効だ。そして、現実にたくさんのひとがそうしている。だから、オタクはいまもどんどん「解放」されている。

 そして、そうなると、その趣味を「オタク」の自意識と結びつけようとする意見は説得力を失うだろう。はっきりこうだといえる「オタク」の自画像なんてものが描けなくなるからだ。

 もちろん、そうなっても、あいかわらずもてない奴はもてないだろうし、世間の見方が一気に変わることもないだろう。何もかもすべて良くなる、なんてことはありえない。

 しかし、少なくとも「俺たち」のことを、「エロゲとネトゲとアニメ以外に生きがいのない汚らしい屑」などと自虐してみせる必要は減るはずである。

 だって、こなたはそんなふうに考えないじゃん。

*1:そもそも自己投影とは何だ?という問題はあるだろう。これについては、またいずれ書きたい。