ライトノベルが時間を止めるわけ。


 『らき☆すた』の魅力はその擬似日常性にある、と書いた。そして、「非物語」的な「擬似日常性」を求める欲望に応えた作品は、いまではほかにも少なくないとも思う。

 『らき☆すた』は極端な一例ではあるが、決して唯一無二の作品ではない。その一例を、たとえば、富士見ファンタジア文庫から出版されているライトノベルに見ることが出来る。

 このレーベルで人気が出た作品は、しばしば本編とは違う時空間を用いた短編シリーズが発売される。京都アニメーションによってアニメ化された『フルメタル・パニック!』はその典型的な例だ。

 ぼくは、昔、この作品についてこう書いたことがある。

 ぼくはこの作品のことをあまりくわしく知らない。だからどこか間違えているかもしれないが、『フルメタル・パニック!』という作品は、ふたつの世界から成り立っているように思う。簡単にいってしまえば、シリアスの世界とコメディの世界である。

 アニメもそうなのだが、そもそも原作小説からしてふたつのシリーズに分かれている。『戦うボーイ・ミール・ガール』に始まる長篇シリーズと、『放っておけない一匹狼?』に始まる短篇シリーズ。

 この長篇と短篇の分離は、富士見ファンタジア文庫の常套手段ともいうべきもので、『フルメタ』だけの特色とはいえないが、『フルメタ』ではかなり自覚的にふたつの世界をコントロールしている。

 登場人物からして違うし、作品の雰囲気も違う。たまに混じることもあるのだが、このふたつのシリーズはほとんど同じ世界を舞台にしたべつの作品だといっていいだろう。

 この二大世界の性質にかんしては、id:hajicさんの「ひとが死ぬ世界」と「ひとが死なない世界」という区分が的確だと思う。

 ようするにコメディ世界では、どんなに大事件が起こっても決してひとは死なないということ。仮に目の前で爆弾が爆発しても、髪の毛がちりちりになる程度で済む。それに対し、シリアス世界で同じことが起こったら、その人物は死んでしまう。

 つまりシリアス世界とコメディ世界は、ただ単に雰囲気が異なっているだけではなく、リアリティの寄って立つ基準点そのものが違うのである。

 いまなら、こういいかえることも出来るだろう。『フルメタ』長編版の魅力は「物語」のそれであり、短編版の魅力は「非物語」のそれなのだと。

 「物語」ということばをどう定義するかはむずかしいけれど、ここでは、「ドラマティックな展開で読者を惹きつけるスタイルの作品」という程度の意味に受け止めてほしい。

 『フルメタ』の場合、長編では、話が進むほどに、ひとが死に、敵が変わり、状況が激変する。そしてそのサスペンスに読者は惹きつけられる。

 しかし、短編版ではたとえ事件らしい出来事が起こっても、次回にはすべて元通りになっている。いいかえるなら、何が起こっても致命的な結果にはならない。

 長編版のサスペンスはここにはない。ひたすらまったりした擬似日常的時間が続いていく。

 そんな話がおもしろいのか? おもしろいのだ。少なくともそう考えているひとはたくさんいる。だからこそ富士見編集部はこういう短編シリーズをいくつも売り出す。

 おそらく『フルメタ』短編版の読者が作品にもとめているものは、よく見知ったキャラクタ同志が絡み合い、軽口を叩き合う、いってしまえば同人誌的な光景だろう。

 したがって、ページをめくるのももどかしい、という種類のおもしろさはここにはない。ただ、そのかわり、あたたかく、楽しく、くすくす笑える雰囲気がある。

 『フルメタ』の場合、最終的に長編と短編はひとつの物語に合流し、その時点で短編版は完結する。作者は、「物語」のなかにすべてを統合することを選んだのである。

 しかし、たとえば、『スレイヤーズ!』などは、長編版が終わっても、短編版は延々とつづいている。もし、読者の支持が続くならば、このシリーズは永遠に続いていくかもしれない。

 まさに『サザエさん』か、『水戸黄門』の世界だ。

 一方、『あずまんが大王』でも『らき☆すた』(のアニメ版)でも、時は、止まっているように見えて、少しずつ進んでいく。「静止した時間」にはない何かがここにある。

 アニメ版をさいごまで見て、漫画版と比較してみるとおもしろいかもね。